» 「社会派」VS「本格派」? | date : 2008/12/14 | |
前回からの引き続きで、推理小説についての考察をつらつらと。 今回は、「社会派」VS「本格派」について。 小説は世につれ、世は小説につれ、という訳で、今でこそ 前近代的な横溝正史の岡山モノも当時としてはリアリティがあり、 そういう意味では、社会のありようと無縁ではなかった、との事。 その立場に鑑みて、いわゆる本格派推理と、社会派推理の関係を考察した結果、 以下のような結論に達した意見がある。 『旧態の因習を打破する合理的金田一青年、という構図に於いては、 「本陣」「獄門島」のオールドファッションな推理小説なども 当時の社会世情に合わせて十分にリアリティのある設定だった。 それを都市型のリアリティに移せば、松本清朝の「点と線」になる。』 ならねえよ(笑 地方と都市のリアリティの差に起因するのなら、横溝を「地方派」、清朝を 「都市派」とでも呼ぶはずだろう。清朝が「都市派」とされずに「社会派」 と称された事自体、今までの推理小説と一線を画したと”思われた”良い証左 なのではないだろうか。 横溝正史も、「貸しボート十三号」とか、「白と黒」とか都市生活に根付いた 推理小説をいくつもと書いている。 それらは、由利麟太郎のような戦前の都市生活ではなく、れっきとした戦後の 日本社会である。にもかかわらずそれらを「社会派」などとは呼ばない。 「白と黒」あたりは、多分に社会派を意識した側面があったのかも知れないが、 まぎれもなく「本格派」に分類される推理小説である。 地方と都市のリアリティに摩り替えて「本格派」と「社会派」を論じるのは いささか乱暴な議論ではなかろうか。 確かに社会派の全盛はたかだか10年、しかも松本清朝は「本格派」を貶める 意思などこれっぽちもなく、むしろ総体としての「推理小説」の興隆を 願っていたのかもしれない。 そして、劣勢にあった推理小説が命脈を保ちえたのは、その社会派の十年が 支えてくれたからであって、「本格派」が「社会派」を恨むのは筋違い、 という議論は理解できる。 また、社会派が沈滞化した後は本格派作家もぼつぼつ登場し作品をリリース しており、1980年代まで本格が不遇だったとするのは誤りだ、というのも 概ね間違ってはいないだろう。 しかし若年ながら当時をリアルタイムに経験している人間から言わせれば、 綾辻が「十角館」でその空気を打破するまで、確実に本格に対する閉塞感は あったのだ。 その閉塞感を説明してくれた論旨には、まだ自分は出会ったことがない。 若年層の知識不足という意見もあるが、それこそ根拠が薄弱だと思う。 内田康夫、西村京太郎、山村美紗、赤川次郎あたりを以って 「本格派の命脈は十分に保たれていた」とするのは難しいのではないか。 社会派退潮後に本格派がクローズアップされることが少なかったのは、 多分に上記作家達の活動に拠る所が大きいと思っているのだが。 また、本格派の愛好者は、「十角館」が館物だったからといって、黄金期の クローズドサークル物の再来を欲していたわけではないだろう。 ただ単に、エクスキューズの付かない「本格物」を読みたかっただけなのだ。 綾辻以降の新本格の興隆をきちんと説明できる論旨が無ければ、万人を 納得させうる事は難しいと思う。 |
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posted at 2008/12/14 23:12:04
lastupdate at 2008/12/14 23:18:19 »category : 日記 【修正】 |
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