» 京極夏彦著「邪魅の雫」読了。 | date : 2006/11/04 | |
京極夏彦著「邪魅の雫」読了。 ほぼ3年ぶりの京極堂シリーズ新作である。 よく京極堂シリーズは、過去の作品を全て読んでいなければ楽しめない、 と言われるが、そんなことはないと思う。 第一作の「姑獲鳥の夏」、第二作「魍魎の匣」さえ読んどきゃ十分。 そこまで読んでりゃあとは間をすっとばして新作読んでもちゃんと楽しめると思う。 出来ればマイフェイバリットの(世間ではそうでもない)第四作「鉄鼠の檻」までは 読んで欲しいが、まあ、上記二作までが妥当だろうなあ。 以下、今回のあらすじ。 親戚によって勝手に進められた榎木津探偵の縁談が、何故か先方の 不可解な断りによって連続3件破談になる。しかも、そのうち一人の縁談相手の 妹が、何者かによって殺害されたという。 不審に思った親戚によって、榎木津探偵事務所の住み込み益田が調査に 借り出される。 その時期、東京神奈川に跨って散発する殺人事件。 縁談相手の妹の死を含む脈絡のないいくつかの殺人事件を、 警視庁と神奈川県警は、これまた何故か連続殺人として追い始めた。 殺人と殺人の間を繋ぐものとは一体何なのか・・・・。 今回は作中の謎は話の展開で次々と開陳されていき、 京極堂が最終的に憑き物を落とす段階では、自分も真相と犯人に 薄々感づいていた。 ざっとネット書評を攫ってみたが、同意見の人間も多かったので、 自分が取り立てて鋭い訳ではない。 前作の「陰摩羅鬼の瑕」も、ネット上では真相バレバレと言われていたが、 自分個人は「やられた!」と思っていた。 「陰摩羅鬼」の真相である理屈は、自分にとっては当たり前すぎて、 却って盲点になっていた感がある。 今回は、文中で懇切丁寧にそこにいたるまでの道程が導かれ、着地点は ちゃんと見えている。 総評すれば、嫌いな小説ではない。色々考えさせられる作品では あるが、娯楽小説としても良く出来ていると思った。 京極堂が作中で語る「文芸評論」論は、半分同意、半分納得できない。 筒井康隆「文学部唯野教授」シリーズを読んでいる身としては、評論の 理論が精緻に高まっていった必要性が、作家の側からも提示されている事が 分かるからだ。 じゃなきゃラングだパロールだコンストラクトだデコンストラクトだ、いままで やってきた積み上げは何なの(笑)っつー話である。 その割りに自分のやってる事は出来の悪い印象批評なのだが。 その他、冒頭で語られる独白にいらいらさせられた。 自分が世界の全てだ、と思っていたが、自分は世界と比べれば卑小で 存在の意味もない砂浜の砂一粒だという。 自分は違うと思う。やはり、自分は自分でしかない以上、他人に置き換えることが 不可能である以上、自分は世界の全てなのだ、と思う。 言い換えれば、神と言ってもいい。 そもそも、自分の認識能力でしか世界を測れない以上、外部を想定する事自体 意味がないのだ。 自分が目を閉じれば世界は消え、自分が眠れば世界は止まり、そして 自分が死ねば世界も滅ぶだろう。それは、何より自分にとっての真実である。 カメラのファインダーを覗く監督の自分かいて、親兄弟ですら自分の映画に 登場する登場人物みたいなもので、けっして自分と置き換わる事はない。 自分(自我)の死=世界の滅亡である。←これとっても怖い。時々耐えられなくなる。 その恐怖を久々に思い出させてくれた小説でもある。 確率は観察者の存在によって収束する。って量子力学では言ったと思う。 ならば、自分という観察者が存在しなくなったら、世の中なんてゼロではないか。 そして、自分が浜辺の砂粒にしか過ぎないのなら、砂粒の周りの世界のみが 砂粒にとっては全てであり、砂粒こそが神なのだ。 不全知不全能で何にも出来ないけれど、やっぱり神でしかないのだ。 そして砂粒が神である事は、きわめて不幸なのだと思う。 |
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posted at 2006/11/04 23:03:22
lastupdate at 2006/11/05 0:35:00 »category : 書評 【修正】 |
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