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» 北方謙三「道誉なり」 date : 2007/11/11
今から十五年ほど前に、ハードカバーで買った北方謙三の小説、「道誉なり」。
何度となく読んでおり、カバーはもうボロボロ。

北方謙三さんの南北朝小説は非常に面白く、ほぼ全部の作品を読みきっているのだが
最初に読んだのが、この「道誉なり」。
結局全作品を読みきっても、一番のフェイバリットが本作である事は変わらなかった。

”経顕もまた、ある諦めの中にいるのだ、”

作中の文言であるが、北朝の重鎮公家、観修寺経顕が、世の中の乱れを
嘆くわけではなく、むしろ面白がっているように見えるとき、主人公の道誉が
彼の内面を洞察したときの台詞である。

経顕だけでなく、当人である佐々木道誉も、舞いの名手一忠も、
やはりどこか”諦めてる”人種だと思う。
彼らは諦めていない人種(代表格が後醍醐帝、足利尊氏)たちに、時として反発し、
またある時は協力しながら、世の中の移ろいを静かに見つめている。

そして、諦めているからといって、決して投げやりにはならず、その中で
最善手を採りつつ巧みに生きている。半ば世事を楽しみながら、
まるで含み笑いをしているかのように。
諦めていない人種達の悲壮感とは真逆の境地で。

諦めてる人間にこそ出来る事もある。それだけ自分に忠実にも大胆にもなれる。

この境地に至るまでには、自分は一体あと何年かかると言うのだろうか。
小説冒頭で登場する、道誉の年齢にあと2年と迫っているというのに(笑

”絶望に満ちた唄だ、と道誉は思った。しかし、絶望のさきにかすかな光が見える。
その光が、一忠の唄だった。”


諦めていない人達の活躍は、「破軍の星」や、「武王の門」でどうぞ(笑
「道誉なり」の佐々木道誉は、歳を食えば食うほど、味の出てくる生き方なのだ。
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  posted at 2007/11/11 0:42:10
lastupdate at 2007/11/11 1:17:41
»category : 書評修正

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