「太平記」に至る時代背景
 

1.鎌倉時代の支配の構造
 
 鎌倉時代というのは、朝廷と幕府という2つの権力が日本を二重に支配していた時代であり、両者ともそれなりの実権を握っていた。もちろん武力を持つ幕府方が全体的に優勢であることは事実だが、朝廷も畿内周辺から西国にかけては相当の支配力を持っていた。
 幕府は形式では朝廷を上位に頂くものの、武装した東日本の独立政権だった。しかし、朝廷の勢力もいまだ根強く、西日本では幕府の威勢は低かったと思われる。
 元寇をきっかけにして幕府執権の北条氏は九州地方に防衛の名目で多くの自勢力を送り込み、西日本への支配力を強化しようとした。朝廷の力が及ぶ範囲は畿内から中国四国に限定され、東西で幕府に挟み撃ちされる形になる。朝廷は自らの勢力低下問題に悩む事になった。
 

2.皇統の分裂
 
 朝廷の勢力低下に拍車をかけたのが、この時期に起きた天皇家の分裂だった。この時代以前にも皇族が二派に分かれて争った事例はあるのだが、ここまで両統が深刻に対立した分裂は初めてである。発端は後嵯峨天皇の子で二人の皇子の皇位争いだった。後嵯峨天皇が庶子たる恒仁親王を偏愛したため、兄で皇太子たる久仁親王との間で大がかりな派閥争いが発生したのだ。結局兄が先に皇位に就き、後深草天皇となり、その後弟が亀山天皇として即位した。しかしこの二人は退位後も院政による実権を握らんとして再び争いを起こし、有力公家の味方引き込みを画策し、さらには幕府からの後押しをも得ようと策略に奔走した。この二つの皇統のうち、後深草天皇の家系を持妙院統、亀山天皇の家系を大覚寺統と呼ぶ。
 

3.両統迭立
 
 鎌倉幕府側は、当初、ライバルである朝廷の分裂騒ぎを歓迎して傍観していたのだが、持妙院、大覚寺両統の派閥工作が幕府内部の有力者にまで及ぶようになると、笑って見ていられなくなった。
 朝廷のもめ事は朝廷で解決してくれ、と通告し、また、二つの皇統が交互に天皇を即位させる両統迭立のアイディアを出した。全くその場しのぎで根本解決になっていない案だが、朝廷側はこれを受け入れ、以降、両統は交互に天皇を輩出する。 
 

4.幕府の支配力の低下
 
 二大皇統の争いにより、権威と支配力の低下に悩む朝廷だったが、幕府もまた同じ悩みを抱えていた。元寇以降、全国に北条一族が守護として配置される割合が飛躍的に増え、彼の一族のみが繁栄することとなった。御恩と奉公の関係を基に御家人の保護を謳ってきた北条家だが、幕府体制維持の為とはいえ一族優遇の措置を取ったことは、この建て前に背くものだった。全国の武士達は、北条家を支えることが自分の所領を保証することにつながると信じていたのに、北条家がそれに応えてくれなくなった。このため全国には従来の武士とは違う土地に縛られない、野伏、悪党などの新しい武装集団が発生し、幕府の支配体制を脅かし始める。また、北条家内部でも得宗と呼ばれる嫡流が尊ばれ、庶流の分家は幕府の政務に参加することが難しくなっていった。さらには、内管領と呼ばれる得宗家の執事役が実権を握り、幕政を私物化しはじめた。奥州の安藤家では本家と分家の間で所領問題が起きたが、内管領の長崎高資が双方から賄賂を取って公正な判断をしなかった為、本家と分家が武力で争う大乱に発展してしまった。北条家は幕府軍を奥州に送って鎮圧に努めたが、敗走するという大失態を犯し、関東の有力御家人の力を借りてようやく鎮めるという醜態をさらした。ここに来て幕府の支配力も下落の一途をたどってきたのである。
 
 

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