新田氏、足利氏のプロフィール 壱、両氏の出自と成り立ち鎌倉の幕末から南北朝にかけて、時代の主役であった新田氏と足利氏であるが、小学校中学校と歴史を学ぶ上に於いては端役扱いで詳細な出自、功績を伝えられる事は少ない。
高校以上の日本史で初めて両氏の中世における役割が語られるが、登場の唐突感は否めない。鎌倉幕府成立期には、承久の乱には、元寇の時には、殆ど姿を見せなかった両氏が、何故か幕末の動乱だけには源頼朝の同族を名乗って華々しく登場する。新田も足利もそれ以前にはどこにいたっちゅーねん、という突っ込みはありだろう。お前ら何もんや?という疑問も依然として残る。
ここでは、それらの疑問を解消していく為に、両氏の出自を調べてみた。1.共通の先祖、源義家 長暦3年(1039)〜嘉承1年(1106)
両氏に共通する先祖でビッグネームと言えば、何と言っても八幡太郎こと源義家だろう。清和天皇を祖とする河内源氏の名門。平安時代、前九年の役、後三年の役で大いに武名を挙げ、全国の武士達のリーダー的存在になった人物だ。新田、足利共にこの人の子孫であり、ここまで遡れば源頼朝とも共通する祖先になる。
2.新田、足利の祖、源義国 ?〜久寿2年(1155)
頼朝が義家の次男、義親の系統であるのに対し、新田と足利は義家の三男、義国を祖とする。義国は藤原実能と争いを起こして朝廷の不興をかい、下野国(栃木県)への下向を命じられた。義国はこの地を地盤として自勢力の扶植に努め、上野(群馬県)から下野にかけて広い範囲を領有することに成功した。北関東における清和源氏の発展は、この地より始まった。
3.新田氏初代、義重 保延1年(1135)〜建仁2年(1202)
義重は源義国の長男で、父と共に関東で勢力を張り、上野国新田郡を父から譲られた。当時新田の地はあまり発達のしていない寒村だったらしい。義重はこの地を一族郎党と共に開拓していき、自らの本拠地と定めた。義重以降その家系は「新田氏」を名乗る事になる。(左は新田氏家紋。鎌倉時代より新田氏の旗印、文様として用いられ、南北朝時代に家紋として定着したものと思われる。)
4.足利氏初代、義康 ?〜保元2年(1157)
義康は源義国の次男で、父が朝廷より追放された後も独り京に上り、朝廷を守護する北面の武士団の一人として大いに活躍した。崇徳上皇と後白河天皇が政権をかけて激突した保元の乱(1156)では天皇方に与し、敵将平家弘を討ち取る抜群の勲功を挙げた。この華々しい活躍によって従五位下検非違使に任ぜられ、内裏への昇殿も許された。父義国からは下野国足利庄を譲られ、以後「足利氏」を名乗る事になる。(左は足利氏家紋。家紋の定着は新田氏と同様。)
5.新田、足利両氏家系略図
源義家からたどる両氏の家系は以下の様になる。
この系図によって、新田氏と足利氏が、鎌倉幕府開設者源頼朝と、比較的近い一族である事が分かると思う。
平清盛が天下を制した平治の乱以降の両家の顛末は次回の講釈にて。
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