後醍醐天皇略伝(中篇)  倒幕の成功〜足利との対立まで

倒幕運動で後醍醐帝を盛り立てた武将達の活躍と、建武親政の迷走を記します。

6.倒幕の成功と建武政権の樹立


 後醍醐天皇は、名和長年に迎えられて伯耆船上山に拠って以来、各地の反幕府勢力に綸旨を飛ばして、倒幕の中心勢力となった。これに最もよく応えたのが、播磨国佐用荘地頭職の赤松円心入道、河内の悪党、楠木正成である。
 この二人は、一説によると旧来からの北条氏子飼いの配下であったという。彼らは一般的な武士とは違い、街道筋を押さえ通行料を取ったり、商業を生業にする事で利益を上げる非御家人勢力で、鎌倉幕府発足時、成り上がりの北条氏は他の御家人よりも勢力が小さかったため、彼らを利用して経済基盤を大いに強化したという。

 鎌倉末期になると、北条氏は全国に圧倒的支配を展開したため、彼らの力を必要としなくなったのかも知れない。後醍醐帝は、赤松、楠木らの北条氏に対する不満を見切って、自陣に勧誘したとも考えられる。

 いずれにせよ、この二人は朝廷方に対する大いなる助力となった。
護良親王とともに畿内に勢力を張り、千早城に拠って鎌倉からの大軍を引きつけ、粘りに粘る戦法と採る楠木正成。これは朝廷方にとってすなわち盾の役割を果たした。
山陽の街道筋に勢力を張り、摂津を進撃して六波羅の軍勢と戦い、これを打ち破って二度も京都に攻め入った赤松円心。これは朝廷にとって、攻撃するための武器、すなわち槍の役割を果たした。
二人の活躍により、北条の力を絶対のものと思っていた各地の勢力も、倒幕の可能性を現実のものとして感じ始める。

 かかる気運を察知した北条宗家(得宗)の高時は、1333年春、北条一族重鎮の名越高家と、源氏御家人最大の実力者足利高氏に上京を命じ、六波羅の救援に当てて赤松円心らを討伐しようとした。
 上京した足利高氏は六波羅には入らず、母の実家上杉氏の家領である丹波篠村に入り、ここに駐屯した。

 一方の名越高家は、赤松円心を討伐すべく彼の本拠地である播磨に進軍し、これと合戦に入る。幕府からの大軍を率いて圧倒しようとした名越高家であるが、赤松円心指揮の前に散々に打ち破られ、自身も戦死するという大敗を喫した。
 六波羅軍を幾度か破り、幕府からの救援軍までをも撃破、大将の名越高家を打ち取った赤松円心の功績は誠に大きなものがある。しかし、赤松が果たした最大の功績は、この大勝によって、足利高氏に幕府への見切りをつけさせた事であった。

 足利高氏は、2年前、父親の喪中であるにも関わらず、正中の変で朝廷軍を倒す戦に動員されており、今回またもや上京を命じられ、従軍させられる事に対して北条氏に対する反感を強めていた。1333年4月、名越高家の敗報を聞いた高氏は、丹波篠山で反北条の旗幟を鮮明にし、赤松円心に協力して入京、六波羅探題を滅ぼして京を制圧した。

 北条氏に続く大勢力である足利家が、反北条を表明して後醍醐帝側に付いた事は大きかった。
 足利と並ぶ源氏の名流でありながら幕府から冷遇されていた新田家も、棟梁の義貞が足利家に同調して関東上野で叛乱を起こし、軍勢を率いて南下、鎌倉を一気に攻略して北条氏を壊滅させた。
 この事態に、千早城を取り囲んでいた幕府の大軍は動揺、楠木正成の猛反撃にあってあっけなく崩壊、雲霧消散する。

 鉄壁の強権を誇った北条氏の支配は、後醍醐天皇の不屈の闘志により、遂に終わりの時を迎える事となった。

 伯耆の地にて名和長年や千種忠顕とともに幕軍に抵抗していた後醍醐帝は、各地で朝廷方が勝利するに及んで悠々と京へ入り、幕府の擁立した光厳天皇の帝位を剥奪して、6月、天皇親政の政権樹立を宣言した。
 

7.建武政権の混乱


 北条氏に反感を持つ各地の勢力に支えられ、再び帝位に復して新政権を樹立した後醍醐天皇だったが、その政事は当初から躓きが多かった。

 まずは政策の失敗である。
 天皇親政を絶対のものとしようとした後醍醐天皇は、光厳天皇の朝政を刷新し、関白を廃して朝廷の旧習を取り止めた。
記録所、恩賞方を新たに設立し、側近の武将、公家を登用してこれに当たらせ、最終的な決定権は天皇が下す綸旨に全てを集約させた。
 しかし、旧幕府方の事務官を追放して、素人集団で始めた政治は、当然の如く順調には行かなかった。
特に恩賞方では、各地から所領の安堵を求めて大小無数の武家が京に殺到したため、天皇親裁の綸旨発行は到底間に合わず、早くも麻痺状態に陥った。

 次に天皇家内部の不和である。
後醍醐帝と、大塔宮護良親王の微妙な対立が表面化する。大塔宮護良親王は、畿内の反幕府軍を結集するため親王の名前で「綸旨」を連発したが、本来、「綸旨」を下す事ができるのは、唯一天皇のみである。親王のような立場で各地に命令を下すとなれば、それは「綸旨」ではなくて、「令旨」でなければならない。
 親王は、令旨ではインパクトが弱いため、敢えて「綸旨」を名乗って各勢力に檄を飛ばしたのだが、後醍醐帝から見れば、これは自らの立場を公然と侵す行為で、不快の極みではあった。
 天皇の寵愛する女官、阿野簾子も、自分の子供を次代の天皇に就けようと、有力な候補でライバルである大塔宮への讒言を帝に繰り返したため、いよいよ親王への風当たりは強くなる。
 しかし、倒幕勢力の一翼を担った大塔宮親王の大功績を無視することは到底できず、親王の要求した征夷大将軍の地位を、後醍醐帝は認めざるを得なかった。
 これも大塔宮の立場からすれば、全国の武士を糾合する立場を天皇の息子である親王が持てば、何かと朝廷がやりやすくなるだろう、との配慮から出たものと思われるが、武家の棟梁という立場を認めさせられてしまった、という点において、公家と武家の隔てなく上位に立とうとしていた後醍醐帝からすれば、いまいましい限りであったと察せられる。

 三つ目は人事の失敗である。
 畿内の幕軍撃退に大功のあった楠木正成、伯耆船上山で後醍醐帝を迎え入れた名和長年、帝に近侍して功績を上げた結城親光、村上源氏の名門で帝から抜擢を受け、常に行動を供にした公家の千種忠顕は、「三木一草(くすの・ほう・ゆう、ちぐさ)」と呼ばれ、多大な恩賞と叙官を受けた。
 楠木正成は、検非違使、河内国司、河内守護、和泉守護に任官。名和長年は伯耆国司、因幡国司、恩賞方に任官。結城親光も同じく恩賞方、千種忠顕は従三位,弾正大弼,参議に任官され、各々破格の待遇を受けた。
 しかし、この四人に伍する、あるいはそれを上回るか、という功績を挙げた人間が、この中に入っていない。赤松円心である。
当初は恩賞として播磨守護が与えられたものの、まもなくそれも剥奪されている。一説によれば、赤松円心は大塔宮と近しいため、赤松を重用すれば大塔宮の朝廷内での地位を強化する事になり、後醍醐帝と阿野簾子は、それを嫌って赤松を冷遇したとも言われる。
 確かに、大塔宮が門主として比叡山に入っていた早い時期から、赤松円心は息子の則祐を出家させて近侍させ、大塔宮とは連携を深めていた。しかし、どの程度大塔宮と親密な関係にあったのかは不明である。
 しかし、赤松を冷遇した事は、あとあと建武政権に暗い影を落としていく。
 その上、反北条勢力をまとめる最大のきっかけとなった足利高氏も、新政権のどの役職にも就かなかった。一応、従三位武蔵守を与えられ、後醍醐帝の実名である尊治(たかはる)より一文字を譲られて、尊氏と改名したが、実権のある記録所や恩賞方の重役には入らない。
京の世人は、新政権に「尊氏ナシ」と噂をして、その人事を不思議がった。
 これは、新政権の混乱を見越して、尊氏側が辞退したものだとも言われる。

いずれにせよ、以上のような様々な火種を抱えて、すんなりと新政権が運営できるわけがなかった。

倒幕に大功ありながら、親政下で冷遇された赤松円心(法林寺蔵 赤松円心坐像)
 

8.叛乱の続発と足利尊氏との対立


 公家と武家の恩賞を全て綸旨で裁こうとした後醍醐帝であったが、複雑に入り乱れた各地の豪族の揉め事を円満に解決する事は、付け焼刃の朝廷では到底不可能、しかも天皇側近の公家は、幕府という後ろ盾を失った武士達を必ずしも公平に扱わなかったため、上京した武家の諍いにより、京は大混乱に陥った。
 ここで天皇は綸旨万能の考え方を多少改め、1333年7月、北条氏以外の幕府官僚を登用し、雑訴決断所を設けて恩賞関連の事務処理を委任した。
しかし、これは武家に対してのみの制度緩和で、逆に寺社勢力や上級貴族に対しては従来の利権をさらに剥奪し、天皇専制の初志を貫徹しようとした。
続く1334年、建武と元号を変えてからは後醍醐帝の専制意思は一層高まり、大内裏(宮殿)の造営や地方への課税強化など、民政的にも厳しい方針をあくまで採り続けた。
 これに反発した公家勢力のうち、北畠親房、顕家親子は、後醍醐帝の子、義良親王を推戴して陸奥に下向し、名目上帝を助けるといいつつも陸奥将軍府を作り上げ、独立した地方政権を樹立しつつあった。
 陸奥の公家政権に脅威を感じた武家側も、尊氏の弟足利直義が、同じく後醍醐帝の子である成良親王を奉じて鎌倉に入り、同様に将軍府を作って独立した政庁を構築していった。
 これらは、各地の有力勢力に息子を預けて自分の血統を絶やさないように、とする後醍醐帝の戦略とも一致したため、天皇自身も了承をした訳だが、実際は公家、武家ともに新政に対する不満を高めており、公武両者の比較的穏便な叛乱手段であったとも言える。

 同時に、このような地方政権を認めた事は、必然的に天皇自身の支配力を低めるものだった。
さらに、阿野簾子が足利尊氏と結んで、反足利色を強めていた大塔宮を後醍醐帝に讒言したため、1334年10月、天皇はこれを捕縛、鎌倉の足利直義の元に送り、親王を幽閉した。倒幕の戦いに功績があり、皇族ながら征夷大将軍の地位を以って武士に君臨しようとした大塔宮を、天皇の私情を以って追放した事は大失敗と言わざるを得なかった。
 これ以後、武士の力は武士でしか押さえられなくなっていく。

 天皇の綸旨の価値は二条河原の落書にからかわれるほど地に落ち、政権はいよいよ混乱の極みに達した。

 鎌倉幕府の北条氏と親しく、武家申詞を歴任した名門公家西園寺家は、幕府が滅亡した後は政権から遠ざけられ、冷遇の極みであったが、当主公宗はこれを不服として再び北条家の天下を招来すべく、鎌倉で新田義貞に敗死した北条高時の遺児、北条時行を擁してついに叛乱を起こした。これを中先代の乱と呼ぶ。
 公宗の叛意はすぐに知れて誅殺されたが、時行は1335年7月に信濃で挙兵し、女影谷、小手指原、府中、武蔵井出の沢で足利直義軍を破って鎌倉に入った。
このとき、敗走する足利直義はどさくさにまぎれて大塔宮護良親王を斬殺するに及ぶ。

 足利尊氏は、弟直義が鎌倉を追われた事態を受けて、鎌倉の奪還命令と征夷大将軍の任官を望んだが、尊氏の野望を感じた天皇はこれを許さなかった。
尊氏は怒り、天皇に無断で軍勢を率いて東海道を下向、慌てた天皇は「征東将軍」という中途半端な地位を移動中の尊氏に贈り、彼への慰撫を図った。
 
 三河で敗走してきた直義と尊氏は合流、遠江、駿河、相模に北条時行を撃破して鎌倉を奪いかえしたが、後醍醐帝からの京への帰還命令を尊氏は拒否し、征夷大将軍の任官を再び望んだ。
 後醍醐帝はこれを叛乱と断定、足利尊氏、直義兄弟の官位を全て剥奪し、もう一人の源氏棟梁である新田義貞を討伐軍の長に任じて鎌倉攻略に向かわせる。ついに、後醍醐帝の命じた軍勢は、足利尊氏と闘うことになった。
 

足利家との対決、南朝成立から崩御までは後編で

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