足利氏、新田氏のプロフィール  弐・源平争乱から幕府成立まで
 
1.平治の乱
 
 平氏が源氏を圧倒した平治の乱では、新田、足利両家とも大きな動きは見られない。足利家当主の義康は保元の乱の活躍の直後に急死しており、息子の義清、義兼の代に移ったばかりであったし、新田義重も畿内で発生した権力争いには関係が薄かったようだ。両家とも平氏によって所領を削られたりした様子は無く、頼朝や義経の様に逃避行をするような事もなかった。
 

2.清和源氏足利家を圧迫する藤原姓足利家
 
 下野国の足利庄には、清和源氏足利家よりも先に、平将門と戦った藤原秀郷を祖とする藤原姓足利家が先住豪族として栄えていた。平治の乱以降、藤原姓足利氏は平氏政権と親密な関係を結び、その勢力を拡大していた。そのために源姓足利氏は圧迫され、所領を失う可能性もでてきた。平治の乱には参加しなかった源姓足利氏であるが、このような経緯から、平氏政権に対して反抗心を持つに至っただろう事は想像に難くない。

 
3.源氏の挙兵と足利家の呼応

  平氏の専制を快く思わない後白河法皇の内々の意向により、平氏討伐計画が練られた。清和源氏にあって唯一政権内部に残っていた源頼政がこれに拠って挙兵し、結果は敗死したものの、全国の源氏残党に与えた影響は大きかった。三ヶ月後には木曽に勢力を張っていた源義仲が挙兵、また、伊勢でも源頼朝が挙兵した。形式上からいえばこれら源氏の挙兵は私怨を基とする全くの反乱軍で、同調者も少なく、兵を動員するにも限界があった。これら反乱軍に加入したのは、在地で平氏と同盟を結んでいる勢力と敵対している豪族達である。宇多源氏佐々木氏は、近江の所領をめぐり平氏派の本佐々木氏と対立。房総の千葉氏も平氏に味方する、下総藤原氏と激しい領土争いを繰り広げていた。そして源姓足利氏も藤原姓足利氏と下野足利庄をめぐって対立していたため、対抗上、源氏の挙兵にいち早く反応した。長兄義清は木曽義仲の軍に加入。弟義兼は母方の従兄弟である源頼朝の旗揚げに参陣し、頼朝を大いに喜ばせた。

 
4.新田義重は中立を表明

  新田氏も隣国の豪族藤原姓足利氏と確執がなかったわけではないが、当事者の源姓足利に比べれば深刻の度合いは遥かに薄かった。特に反乱軍に加わる理由がなかったのだろう。頼朝に挙兵を誘われた時も、その配下に入る事を拒否し、源平の合戦には加わらず日和見に徹した。
 

5.頼朝の戦後処理と新田、足利両氏の顛末

  頼朝は、強大な平氏軍に予想外の完勝をおさめ、同族のライバル木曽義仲をも退けて幕府という新しい支配形態を生み出した。
  義仲軍に参加していた足利義清は平氏との水島の合戦で戦死しており、旗揚げ当初から頼朝と苦楽を共にした義兼が源姓足利氏の棟梁となった。頼朝は義兼の参陣を高く評価しており、自分の妻北条政子の妹を義兼と結婚させて足利氏を親族同様に扱った。本領足利庄をめぐる源氏と藤原氏の争いも、平氏の滅亡によって完全に源氏に軍配が上がり、これ以降、足利氏といえば事実上、清和源氏の足利氏のみを指すことになる。北条氏とも昵懇の関係を築いた足利家は、関東、東海、近畿地方にまで及ぶ広大な所領を与えられ、鎌倉幕府下で大勢力として繁栄していくことになった。
  一方、途中まで戦況を眺めていた新田義重は、頼朝が優勢になった所で慌てて馳せ参じ、配下に入る事となったが、頼朝の一番苦しい時にそっぽを向いた罪は軽からず、その遅すぎる参陣を叱責されてしまう。これ以降、新田氏は鎌倉幕府から冷や飯を食わされる事になり、その所領も上野と越後の一部に限られた。隣国の親戚足利氏とは対照的に弱小御家人としての立場を取ることになってしまった。
 
 

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