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ルター神学:秋の特別講座@  
                   ルーテル新学校  橋本 昭夫 先生
 

1.現代の相とルター神学
 人間は歴史的存在である。そのことは、歴史の節目にとくに感じられる。過ぎ越しかたをふり返り、それぞれの時代のきわ立った傾向を認めるに至るからであろう。20世紀の終わりに向かう昨今、この激動の世紀を総括しようという試みがさまざまな関連で見られる。前世紀との比較において今世紀はどのように特赦づけられるであろうか.大づかみ、それは悲観主義の時代であったと言えないであろうか。啓蒙時代め名残りをまだ強くとどめていた19世紀は楽観主義の時代であった。少数の人は、たしかに「西洋の没落」を予感していたが、大多数はオプティミズムを歌い、輝かしい未来を描いた。教会とても例外ではない。進化思想・進歩主義は、教会・神学にとっても、自明の真理であったように見える。むろんそれは、西欧にだけ支配的であった思潮ではない。内村鑑三などの明治のキリスト者の多くも、啓蒙主義的思想の信奉者であった。しかし思想上の20世紀は、1914年の第一次世界大戦をもって始まった(もちろん当時は「第一次」などという名前はついていない?一起こってはならない、そのことの防止のために世界連盟がつくられたはずの、第二次世界大戦が勃発してあとからつけられた名称であって、今世紀を象徴していると言えよう)。20世紀は激動の世紀であり、とりわけこの世紀末、良し悪しの判断はともかく大きな世界秩序は崩壊し、グローバルに・リージョナルに状況は混迷を深めているように見える。とくに冷戦の枠組がくずれ、とくに旧ソ連の支配下にあった地域は、それまで押さえられていたエネルギーが吹き出
し、まさに新しい秩序への産みの苦しみをしているように見える。そのことは、もはや「地球村」となった現代の世界においては、どこもその運命共同体の埼外に立つことはできない。むろん、世界第二の経済大国と言われる日本はそのただ中にいると言ってよいであろう。その日本も、もう古い話に属するが、いわゆる「55年体制」が崩壊し(旧社会党は事実上消
滅した)、保守・革新のバランスが失われ、右傾化に拍車がかかってもそれを翻止するすべがないように思われる。金融危機・景気下落・雇用低迷・老後不安などは、世紀末の日本を象徴する現象であろう。労働モラルの低下、責任意識の後退なども、将来への悲観をあおるかのような印象でもある。
 世界には、はたして原理があるのか。現象はさまぎまに立ち現れる。それが「吉」を卜しているのか、あるいは「凶」を告げているのか。昨今のさまざまな事象を見るとき、世界は破滅に赴いているのではないかという印象をもつ。「ノストラダムスの予言」の日、1999年7月31日はこの日本で、関心をひいた??この日が世界の終末を舎げる魔王が出現する
とのことであったが、たいていは本気にしなかったであろう、だが心のどこかに気になるところがあったのではないか。あるいは、時代の空気から感じられる不安が、これを触媒として、静かに結晶化したものであると言えるかも知れない。自然環境の危機が叫ばれるのも、小惑星の地球との衝突が言われるのも、宇宙のエントロビー(寒暖の差がゼロになりエネルギ
ーの移動が皆無になった死の世界)が予言されるのも、なにか漠然とた未来への不安の代理表現なのかも知れない。
 ちなみにであるが、ジョン・ウエスレーは世界をどのように見ていたのであろうか。言うまでもなくウエスレーの生きた世界は、文化的にも、時代的にも、ルターのそれとは大きく異なる。人間が時代の子であるかぎりなにびともその影響なしではありえない。ウエスレーは、産業革命後の英国、とりわけ大英帝国の形成斯に生きた人であり、そこには急激な資本主
義め発展にともなって生じるひずみとしての社会問題が種々あったにしても、その基本は啓蒙主義の基調である楽観主義を踏襲できたであろうことは容易に察することができる。神の創造になる宇宙は調和の世界であり、この現実に起こるさまざまな理不尽や、囲耕、問題、諸悪も、究極的にはこの神の原初的調和に貢献するものであり、究極的な問題とは見なされない。神義論がなお可能な時代に生きたと言えるであろう。それはまだ「古き良き時代」であったに違いない(野呂芳男『ウエスレーの生涯と神学』第6章2節の「神と歴史」を参屠)。
その意味では、現代はウエスレーの生きた時代より、ルターの生きた時代に、実存感覚としては近いと判断できるだろう。つまり現代は、「ポスト・アウシュヴィッツ」の時代として、一義的な神義論はもはや可能ではなく、むしろ不条理を不条理として認めずにはおれない状況になっている。バルカンは火薬庫であり続けるであろうし、インド・パキスタンの紛争は
核戦争に発展する危険をはらんでいるし、中台問題はどのように展開するか定かではなく、東チモールは東洋のバルカンになる恐れを多分にもっているという。南と北の貧富の差がますます激しくなり、南から北への、あるいは発展途上国の発展国への流入も大きな国際間鹿になりつつある。資源の枯渇、技衝と倫理の帝離、宇宙規模の不安などを考えると、「きばらし」でもしなければ生きていけないような状況が展開していると言えよう。世界にどのような意味を見い出すことができるのであろう。世界そのものが内在的に、なんらかの一義的な意味のメッセ←ジを発しているのであろうか。それとも、無意味と虚無以外の何ものでもないのではないか。現代は、そのような先の見えない時代であると言えるのではないか。そのときに、存在の基盤と確信を、人間はどこから、どのように得ようとするのであろうか。内在斡にではなく、「超越的」にという方向にしか、意味が見い出せないのではないか。科学万能の思想から世界が無横化し、もう一度「心の時代」であることが叫ばれ、宗教の復興が叫ばれるのは、やはり世界の見えるところによってではなくそれを超える、世界の「外に」人間存在の板拠と意味が見い出されるということを示唆してはいないであろうか。ルターの「十字架の神学」、そしてその背後にある「隠れたる神」の洞察が現代にとわれる所以である。
  2.隠れたる神
 「イスラエルの神、救い主よ。まことにあなたはご自身を隠しておられる神である」(イザヤ45:15)なるみ言葉はルターがラテン語訳から好んで引いた彼の「隠れたる神」の思想の聖書的典拠である。実際この「隠れたる神」の禅学的観点は、「一見矛盾していると思われるルターの言葉づかいにもかかわらず、ルターの神学の末端にあるのではなく、彼の信仰観
に密接しているのであり、したがってルターの神学の中心にそびえ立っているのである」(レーヴェニッヒ『ルターの十字架の神学』36ページ)。これによれば、神は逆相のもとにご自身を隠しておられる、それは「隠れたる神」の思想の形式的側面であるが、その意味では十字架の神学と本質的な面で重なりあうと言ってもよい。しかし十字架の神学は「隠れたる紳」
の棟念に比較するとより包括吋であり、「隠れたる神」はルターの神学において、もっとも特定的に神観そのものを表現する概念であると言わねばならない。そうならば、その「隠れたる神」の言わんとすることは何か。それは三つの観点から捉えることができるであろう。それは紳の絶対的超越をまず措定する。第二に、それは神の絶対的主権を確立する。そして第
三にそれは、神の一方的な恩恵による救済の絶対的根拠を表現する、つまり理性的に透徹不可能な神の秘義の中にこそ確かな救済の根拠があるということを言わんとするのである。その意味でルターの隠れたる神の思想は、彼め義認論と不可分の関係にあり、すぐれて救済論的な枕念である。ルターが「神学の主題とは断罪された罪人とそしてそれを救い義とする神である」とその『奴隷意志幾』で述ペているが、隠れたる神の思想もルター神学のこの救済論斡・実存的枠組みから出るものではない。したがってルターが、神学における「隠れたる神」の思想は、一般にそう理解されがちなように何か一種独特な神秘主義的思弁ではなく、徹頭徹尾、福音の神学の「至聖所」的表明なのである。
 上記三項目について若干の展開を試みてみたい。ひとつその常に確認しておきたいのは、もうすでに明らかなように、神が隠れていたもうというのは人間の理佐的認識にたいしてである。しかもその場合の理佐と言うのは人間の自己神化のもっとも端的なあらわれとしての「理佐」である(ここでルターの理性についての考えを詳述できないが、次のようにだけは言っておくことができるであろう、理性は神が人間に与えられた賜物のなかでも最高・最善のものである、しかし罪の呪いの中にいる人間は神を自分の存在の根拠として否定したからには、自分をそして自分の理性を最終の権威に祭り上げざるをえない、自律的に人間の最終的根拠は己の理性以外にないのである、この自律的人間・自己神化の人間の具体的なあらわれとしての理性、それがルターが攻撃してやまない理性なのである?一「わたしの民は二つの悪しきことを行った。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて自分で水ためを掘った。それはこわれた水ためで水を入れておけないものである」エレミヤ書2:13)。    

 第一、神の超越。ルターの思想において、彼の神の超越め原体験は基本的な意味をもつ。それは、終生、彼の神学の基本的所与であった神体験である。神は神である、人間とは質的に相違したもう存在である。人間の一切の認識機能(理佐的、宗教的、道祷的)の把握能力を超えておられるお方である。「神は神である」(Deum essse deum)ということは、もっともラディカルに、この神の超越を表現する。神は、啓示において自己を人間をあらわされるが、その啓示においてご自分を全く人間の認識にまったく委ねられるわけではない。主イエス・キリストのあの十字架における啓示が示しているように、神はその自己啓示においてもなお隠れていたもうのである(神はご自身の啓示の主でもあられる)。そのことは人間にとっての神め認識の可能性は、原理的・根源的に閉ざされているということだ。理佐はその十全なのときでさえ、たとえば自己の本質と神の本質との連続性を措定して能動的に自己をさぐり神に到達できるという、そのようなものとして与えれてはいないということなのである(ルターは、出エジプト33:18から、人間は誰も神の顔を見ることができず、神の背後を??
Posteriora Dei一?を見るだけだ、言っている、モーセですらそうであった)。人間が罪を犯し、その結果理性が堕落して神を理性で知ることができなくなったというのではない。神認識は、本来的に理性によってなされるのではなく、神の賦与、与えるという行為に依存しているのだ。そしてその啓示に対して信仰が対応する。しかもその信仰は啓示が神の愛、燐れみ、好意の現われであると確信する信頼を核としてもっている、そのような意味での信仰である.このことが現実の信仰的実存においてなにを意味するかと言えば、たとえ神の備え給う現実が人間の最善の判断にとって無意味・虚無、それらが極みの様相を呈するとしても、あるいはアブラハムのイサク燔祭の例のように神の取扱が理不尽の極みの様相を呈するとしても、なお神を神として信頼するということを意味する。望み得ないのになおも望む、という現実の逆相のもとにあっても神の最終的な愛、あわれみのみ心を疑わない信頼である。

 第二に、隠れたる神の思想は神の絶対的主権、絶対的支配を表現する。信仰は、逆相に抗して神を信じるというこの信仰理酵の背景に、この現実がその明暗の両極において、神はトータルにそれをご自分の支配のもとにおいておられるという神の絶対支配・絶対主権の神学的理解がある。神はすべてにおいてすべてを働いておられる。悪魔的現実もその例外ではない。人間が経験する悪魔的経験、神の啓示された愛のみ心を真っ向から否定する悪の現実と悲惨、それすらも決して神の支配の枠外にあるのではない。理性的にはその経緯をつまびらかにすることはむろんできない。しかし、すべてにおいてすべてを働いておられる神、それがルターの神観の特徴的なところである。その意味で「神は人間の本性に耐え難い方」であり、それゆえに啓示という被いなしには(つまり受肉のキリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外には)知られない方であるもまたそれゆえにこそ、神はかくあるべきお方とするような、マルキオン的神観、そしてそこにおける二元論はルターの神学ともっとも遠く離れたものであると言わねばならない。そして人間は、この圧倒的な神の前では、なんら抗議する資格をもたない。「神は神であって人ではない」ではないからだ(ホセア11:9では、このことが救済の根拠となっている)。不条理も、虚無も、人間は神の支配されるこの世界について神を訴えることはできない。神を告発できないのである。神への信頼と讃美こそふさわしく求めれているのである(これはある意味では苛酷に見える神学思想であろう。しかし、
このルターの神観は決して皮相的に、暴君的神観というように理解されてはならない(アルプレヒト・リッチュルはそのように理解した;つまりルターは、オッカム的範疇の独善的神観のわなに落ちたのだ、と)。そこには逆説的ではあるけれども、深いなぐさめに満ちた、虚無・悲惨のなかにあっても人間として生きる可能佐が備えられているのである。それは人間
がどのような客観的環境の無意味の中にあっても、なお神のあわれみを信じ、神の愛の中、神のものとして生きる世界がそこに広がっているのである。むろん、このような神と現実理解の背後には、神の支配になるこの世界は「なぜ?」を問うことによって生きることが出来るのではなく一ーそれは不可能であり、不信仰の道である??、そのような中で碑のみ名を呼ぶことによって人は生きることができるからである。)神の絶対的主権の主張はこのように極めて実存的に慰めとなりカとなる含みをもつものである。

 以上においてもうすでに第三の事柄に触れた。「隠れたる神」の思想はきわめて深い救済論的意味をもつ。そして一見埋不居め様相を呈しているが、まさにそうであればこそ、救いとなるという経緯があるのだ。それはまた理性の求めるところがいかに皮相的であるか、つまり人間の思惑のいかに無力であるかということを示すのである。隠れたる神の思想の救済論的意味がもっとも明らかになるのは、福音的理解においては救済は人間的にはまったく無根拠であるということだ。救いはいかにしても理性的につまびらかにすることができない。救いの神のみ心は人間の理佐には隠れている。まさに「なにゆえみ神はかかる身をも神の子とせしか知るを得ねど」と聖歌に歌われているとおりである。そしてこの救いが隠れているということが、教理的な面で典型的に見られるのは予定鴇である。福音としての予定論が言わんとするのは、実は救いは神の選びによるのであり、選びは私の側に何らの捜拠もないということである。このことほルターにとって二重の意味で福音的であるということだ。ひとつは、救いの根拠がまったく神の側にのみ置かれることによって、人間の側にある場合のように、人間の条件によって揺るがないということである。実際に人間の偶に根拠が求められるとすれは、救いめ確信は不可能となる。人間は常に罪人でとどまるからである。もう一つの面は、救いの根拠が理性的に洞察可能となるとき、それは常に律法的な救済理解となる。つまり、理性的に洞察可能ということは、救済が因果関係で捉えられることを意味する。そしてその因果関係の内実というのは、何らかの意味で人間の偶に根拠を求めるという
ものたらざるをえない。スコラ神学の場合がトマス的な場合もオッカム的な場合も、例外ではない。つまり救済が道徳化されるということである。そしてこの道徳化こそ律法主義であり福音の対極に位置するものである。神が隠れていたもうということは、このように福音的救済理解のいわば真の面であると言うことができる。「自分の理性や能力によっては、私の主
イエス・キリストを信じることもみもとに来ることもできないことを、私は信じます。けれども、聖霊は福音をとおして私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちにきよめ支えてくださいました」と彼の小教理問答・使徒信条第3条の解説のところでルターは簡潔に救済の理性を超える旨を述へているが、隠れたる神の思想を背景としているのである。            
 隠れたる神の思想においてただ一つ注意しておかねばならないのは、それがすぐれて救済論的意義をもつのは信仰においてのみであるということである。神の超越も絶対的主権も、それ自体において見られるならば、それは焼き尽くす火である。ポイントを明らかにするために、あえて言えば神は御自分の絶対的主権のもとで、私を滅びに定めたもうとも、そこに何の不義もないのだ。神はそれほどまでに徹底して主権者でいたもう。そして実際、信仰によらずしては神は暴君以外のなにものでもない。もしこの世界が神の支配のもとにあるという立言が事実なら、この理不尽の現実をもたらした神は義なる神でなく、不義なる神にちがいない。少なくとも「神義論」的に神が義とされずしては、神は神として認められないような
現実なのである。神は救いを与えることにおいてもあくまでも主権者でいたもう。まさにこの恐れがあってこそ、人間のいやしがたい自己神化、神をさえ取り込んで自らを神としようとする人間の自己神化を殺すことができるのである。神は生かす前に実際に殺し給わねばならない。そして信仰がなければ殺されるのみで生かされることがないのである。隠れたる神と
は、主権者なる神が救済者であって、しかも救済者でありつつ、生かし殺す最終的主権を常に主張し給う神である。そしてこの主権にこそ、人間が人間にとどまって救われるにいたる救済論め背景があると言えよう。

  3.十字架の禅学

 1518年4月26日にもたれたハイデルベルグ討論でルターは「十字架の神学」について次のように言っている:「禅の見えない事柄を、あたかもこの現実の中におこる事柄を通して認識しうるとする者は禅学者と呼ばれるに値しない。しかし、苦難と十字架を通して見られる事柄に神の明らかな事柄を理解する者は神学者と呼ばれるにふさわしい」。ここにルターの十字架の神学の古典抑表現が述べられている。ところでここで問題とされているのは、つまりは神認識がいかにして可能であるかと言う問題である。むろん神学において神認識というのは、実存との密接な関わりをぬきにしては考えられない。人間の実存に真に関わる神に認識はいかなる道によるのかということをルターは論じているのだ。十字架の紳学とは、端
的に言えば、キリストの十字架に象徴される苦難と恥、虚無とやみ、およそ人間が価値ありとする対極、したがってそれを忌避し、神の不在を総論せざるをえない現実の中にこそ、そしてその中にのみ、真の神認識があるとする基本蹄な神学の立場である。それは理性にとってやみがたく躓きとならざるをえない逆の現実め中に神ご自身を認識する、VERE COGNITIO DEIがあるとする神学である。
 そしてルターが、この「十字架の神学」の対極にたつものとして否定するのが「栄光の神学」である。彼は、同じハイデルベルグ提題において「栄光の神学」を上記のように、神を直接的に、しかも人間理性の認識と直線的につながる形で認識しうるとする立場と対比させているのである。ルター自身の言葉によれば、神の創造のみわぎから神を推論しようとする
神学をさしているのだ。自然神学と私たちは言い扱えることができよう。そして自然神学は合理的神学であるとも言えるのである。ルターがスコラ神学を「栄光の神学」と呼んだのは、スコラ神学の方法論とそのめざす方向を端的に表現したのであると理解できる。
 それでは、ルターにとって真の神学(つまりは福音の神学)はなぜ十字架の神学でなければならないのか。私の観点からは、三つの事情をあげることができると思われる。一つは、神の救済のみ心はキリストの十字架においてもっとも本質的に啓示されたということ。二つには、救済は信仰によるほかないこと。そして三つ目は、人間の苦難に満ちた現実の中でこそ、つまり実存の十字架においてのみ禅を見出しうること。そしてこれらの三項目は実際たがいに密接につながっている。さらには、人間の実存の根本的な事情が苦難そのものなのだという認識が動かしがたくある(そしてルター神学においては、それは神のさばきのもとにある実存として理解されている。) ここで以下の展開のために、ルターが苦難をどのように理解していたかを一瞥しておく必要がある.ルターは苦難を、信仰的実存にとって不可欠めものと考えていた。なぜか。苦難によって人間は、自己の能力や、自己の価値、自己の尊厳について、絶望へと導かれ、無にされるからである。人間にとっての根本的問題、病弊はなにかと言えば、人間の誇りであり、自己是認であり、さらにラデイイカルに言うならば己を神とする自己神化にほかならない。まさに「神のごとくになる」ということなのだ。そして救済の根本的前提は、この人間の自己神化を徹底的にくだくことにほかならない。神の恩恵か、人間の誇りか、これはカテゴリカルに二者択一的なのである。神と人間の調和的連続性は、人間の側の傲慢卓越として否定される。ここにスコラ紳学との対比があり、他のすペての栄光の神学とめ対決がある。神を崇めるといいながら、その実人間自身の自己神化をかくれた形で主張し、神の栄光をのべる賛辞もその内実は人間の自己賛歌にすぎないという人間の根本的俄錯が否定されているのである。その意味で十字架の禅学というのは、人間の神関係における根本的倒錯、罪の絶ちがたい現実を認識した神学である。十字架の神学は、神と人間め救済論的連続佐も否定する神学であると特赦づけることができよう。そしてこの背後には、ルター独自の神の絶対的超越にたいする感受性がある。このことについては「隠れたる禅」を取り扱う次め項でとりあげる。 「十字架の神学」はこのように啓示論、罪悪論、救済論、そして実存論の総合としてとらえることができるよう。神はご自身め栄光を十字架の恥のもとに隠された。そしてそめ十字架は、決して安易に栄光化されない恥として弱さとして、虚無・無意味としてとどまる実存的リアリティである「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」の現実である。十字架はたしかに固有の深いやみをもつ。人間は、否応なくその現実の直中にありながら、それを様々に(形而上学的構築物をもって、たとえばプラトン的アイデアリズム!)超越克服しようとはかる。そしてその試みの中で、栄光の光の中に描かれた神を、超越克服の「てこ」として利用しようとする。しかしどのような理論操作をもってしても、現実の十字架の現実は否定されえない。かえって否定すればするだけ、なお否みがたく人間め実存に迫り臨んでくる。なぜならそれは神ご自身のさばきであると理解されているからだ。神のさばきはどうして免れえよう。                 
 神をも「てこ」としようとする人間の試みを禅は、十字架において自己を啓示することにより断とうと。されたのである。十字架の愚かさにつまづきそのつまづきによって人間がおのれの誇りのむなしさを知ることなしには神の救いを得ることができないのである.十字架において人間の誇りの一切が否定された。そしてこの十字架の根源的なつまづきのゆえに、人間は自己の理性的能力、道徳的・宗教的能力の神の現実の前における無を知り信仰へと促されるのである。信仰とは、ルターの神学において罪の現実の対極にたつ概念である。罪の根本が、人間の自己信頼・自己神化であるならば、信仰こそ人間が自己の可能性に絶望し、神のみがおのれの存在のみなもとであると告白し、神を神とするという人間の神の創造における根本規定に立ち返ることに他ならないからである。ルター神学においては信
仰はまず第一次的に「信頼」(FIDUCIA)として理解される。それは知的なたとえば「知らんがたぬに信じる」と言われる場合の、いわば認識論的なひとつのモードとしての信仰というのではなく、全人的な、あるいは人間の魂そのものの神への帰依め関係をあらわす言葉なめである。そしてこの「信仰によってのみ」人間は救われるのである。

4.十字架の紳学と現実め克服
 ルターは十字架の神学こそ、人間の現実をその現実の即して認識する神学であると主張した。その他の方法による神学、それらによって構築された神学は、すべて仮構であり現実の切迫の前では蜃気楼のように実体のないものであると断じた。栄光の神学は、十字架と苦難の外に神のリアリティを見ようとする。しかし十字架の神学は、苦難と十字架の中にのみ真実の神にある信仰的実存があると判断した。それは信仰により苦難のただなかにこそ神にある実存があるという認識である。苦難の除去にではなく苦難を素材として苦難を内から克服し、神を讃美するそんな信仰的実存を真理として主張するのが十字架め神学なのである。「栄光の神学」が思弁的であって形而上学的世界観を試み、それをもって主知主義的に現実を克服しようとするのに対し、十字架の神学は「実践的」であり、実存的である。実存の苦難、そして人間の罪ふかさの謎、神の測りがたい知恵、それについてあえて思弁を試みようとしない。そこに人間の理姓、直感、感覚その他の認識能力についての相対佐の認識、そして付随する謙遜、それが十字架の神学のプロフィールなのである。それゆえにいわゆる「神義論」的関心はルター神学においては起こってこない。

 十字架の神学は、現実に打ち勝つ信仰(WIRKLICHKEITSFAHIG)であると言われる。実践的なのである。理性が、不条理の現実を前にして途方にくれざるをえない状況の中で、十字架の神学はその不条理をとうめではなく、その不条理をあたえつつもそれを克服する道を備えてくださる神に信頼することを主張する神学なのである。ドイツの教会の感謝の歌として有名な「いざやともに」(Num danket alle Gott一日基襟美歌2番)は、牧師であり讃美歌作者であったマルチイン・リンカルトの作品である。こめ讃美歌は、三十年戦争という、ドイツ全土が戦場となり、ドイツ各地はそのために荒地化し、規律のない軍隊や住民の間で、残虐な行為が繰り返され、途方もない犠牲の血がいたずらに流されたと言われる状況の中で作られたと伝えられている。こめ伝聞の史実牲には、一部旋念がもたれている面もあるが、まさにあの悲惨な状況の中にあっても、その悲しみと痛みつつ、なお神に讃美をささげていく信仰、それが十字架の信仰であり、隠れてい給う神を信じる信仰なのである。それはまた、いくぶん文脈の意図とはずれるけれども、「世に勝つ者は誰か、イエスを神の子と信じるものはないか」(?ヨハネ5:5)という信仰に通じるものである.逆相のもとに神を認める信仰こそ、失望に終わることのない信仰であり、ルターの神学の核心はここにある。
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