1.仮面の神

 Deus absconditus(仮面の神)は、という考え方は、ルターの神理解の、基本を成すもののひとつである。今日の神学が、神をその実体において理解するために、何かの発見をしまた新しい意味を付け加えようとも、神の非理解可能性は残る。被創造物たる人々の「神の存在理由の一つ」になっている。もし神に関するすべてのことが、われわれの知性の中に明らかにされたなら、その瞬間に、神が神であられることをやめられることになり、われわれは神を必要としないことになってしまう。「神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。」(1テモテ616)であり、人は多くを計画するがただみ心のみがなるのである。そしてルターの神理解において、歴史認識の占める割合は大きい。 

 この世の、不信仰な人たちは、物事に対して、結末を計算しそのために、人間的な努力を払う。けれども、信仰者には待つことに主眼が置かれる、「神の成されることに期待をし待つのである」。神が我々の後ろからこられるなどと言うことはない。我々はその後姿をおぼろげに見るのみである。神の正義は、歴史の全過程を制御する。神の怒りの審判は、自然の中に宿っている。それだから神が成したまわなければならないことは、ただその保護したもう手を引っこめると言うことだけであって、そうすれば審判が起こるのである。歴史の主として神は誰ともその主権を分かち合おうとはしたまわない[1]

 旧約聖書の歴史全体がこのような、隠れたる神によって制御されている。ルターはこの世のあらゆるものを「神の仮面」としてみた。

 真実の神は、キリストにおいてのみ見出される。しかしこの啓示について考えてみよう。キリストにおいてもまた、多分に隠されている。神はご自身を隠された。と言うのは、ここで神は自らを堕落した世界に対してあらわされるからである。これが、キリストが十字架の上で力なく、力なきものとして罪と死とこの世、地獄、悪魔、またすべての悪を克服される理由である。十字架のつまづきについてルターはこのように表現している。「地の上において、生きていたもうべきであるというばかりでなくて、主であり、生命の与え主であり。死人を生かしたもうかたであると考えられた人が死に瀕しているということほどに、愚かしい、不可能な、また絶望的なことは、かつて聞かれたことも見られたこともない」と[2]

 信仰のみが神の活動を理解するのであり、信仰によって、書き留められた歴史の解釈は、告白のかたちを取っている。すなわち、罪の告白と讃美の告白(confessio peccati, confessio laudis)である。これは、常に正しくありたもうことを認める、ことにおいて等しいのである。

 ルターにおいて、歴史の三つの要素は、国家と、それを支配する力、および予期されない偉大な人間(via heroicus)である。神が「奇跡人(Wundermanner)」を送られるのは、自然法の受肉としてであり、奇跡人は神に教えられる。

 神学上、神議論とされることと、ルターは反対の思考をした。神が正しく聖で、義なる存在であることを理解するために、これらの学問は理性の手段によって神を決定しようとするのである。「人の前に神を義とするのではなく」、主たる神の前における、人の義認に関心を寄せるのである。

 キリスト論においても類似の理解が見られる。ペテロス・ロンバルドゥスや、トマスアキナスのような指導的なカトリックの神学者たちは、その教理の上から、先在性、三一論、両性論を持ってはじめた。しかしルターは、ことが救いの教理に関係しない限り、救い主のの人格に対する興味を示していない[3]

 中心なのはみわざであり、ただ、このことを中心としてキリストの人格にもかかわっているのである。信仰者の喜びの姿は、キリストの形而上学的な理解にあるのではなく、「キリストが現実に、なにをなしたもうたか」に、主要に注がれるのである。

 この考えはまた、この世界の日常にあって、「自由意志」をめぐって、エラスムスと数年間に渡ってあらそられた、自由意志と奴隷意志の問題にも見られる。ルターは「自由意志」を「実体のない名称」とし、この世の政治、経済、道徳など理性が支配しうる事柄に関しては自由意志が働くことを認める。しかし「神の前」では意志は自由ではなく、罪の奴隷であると言う。ルターは、神の全能の信仰から、人間に自由意志のないことを帰結する。律法は、自由意志を証明するものではなく、「律法にあっては、罪の自覚が生じるのみであるという」という。さらに罪は、人間の卓越した部分とみなされる理性や意思の道徳的努力の中にこそあるとする[4]

我々は、キリストを通して、立たせるために倒され、倒されるために大きくされた、神の前に、キリストを、キリストの本質ではなく、はるかに勝って、キリストが何を成されたかを、信仰にあって喜ぶのである。と、理解するのである。



[1]ピノマ、『ルター神学』、p.91
[2]『イザヤ書講解』
[3] Erich Vogelsang
[4]『ルターと宗教改革辞典』、「unflreier Wille
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