『里村茜嬢の二律背反的な悩み

あの頃――毎日雨の中をあの場所で立っていたあの頃だ――は、あの雨水の冷たさに震えながらも、何処か心地よいものを感じていた。きっと、自分自身がどこもかしこも冷たかったためであろう。だけど、今は、熱すぎず、ぬるすぎもない湯がひたすら心地よい。あの雨が嫌いになったわけではないが、今は丁度良い広さの湯船にゆっくりと浸かっているのが、何より心地よいのだ。

 そう、最近の里村茜は、長湯が癖になっていた。

『里村茜嬢の二律背反的な悩み』(2001.08.19)

 彼女のトレードマークで、実はちょっと自慢である大きな二本のお下げは、丁寧に解いて頭の上に大きめのタオルでまとめてある。以前詩子が泊まりに来て一緒に風呂に入ったときに大爆笑されたが、湯船にだらしなく浮かべるのも嫌なので、そうしていた。それにいくらなんでもドでかいパイナップルと呼ばれて、指をさされるほどではないと思うのである。
 ちなみに湯船には入浴剤とかは一切入っていない。純粋なお湯である。別に何か混ぜるのが嫌なわけではない。その証拠に、周りにはまだ秘めているが、今度の休みには温泉に行こうと思っている。それか彼女のささやかな野望であるのだが、要は、普通のお湯で楽しめるのなら、それで良いのであった。
 先程から、目を瞑っているが特に何か考えているというわけでもない。時々鼻歌を歌ったり、実際に歌ったりすることもあるが、基本的には、何もしないし、何も考えない。ただぼーっと湯に浸かっているのである。と、その何も考えていない頭に、彼の事が浮かんでくる。この件について間接的な影響を与えた彼である。
 確か、出来る限りの自然を装って、一緒に入るか?と不自然きわまりないことを訊いて来たので、間髪入れず、力一杯「嫌です」と宣言させてもらった。その後隅っこでいじけていた彼を思いだして、思わず口元が緩んでしまう。
 今度温泉に行くとき、彼を誘おう。そう思う。そしてその後の思考は静かな湯気に巻かれて、消えていった。

 どれくらい入っているか忘れた頃、頭の中がふわふわしてきた。のぼせはじめた兆候だ。残念だが、これ以上湯船にいても気分が悪くなるだけなので、出ることにする。
「ふう……」
 入っていた時間が時間なので、湯冷めしないよう手早く用意して置いたバスタオルを身体に巻く。同時に同じく置いていたタオルで髪に含まれた水分をよく拭き取って、丁寧に櫛を透す。
 いつものことだが、髪をしっかりと梳かさないと、どうしても髪が広がってしまう。これまた詩子に大爆笑されたが、こちらは否定できない。鏡で見たときに自分でも、巨大な箒の先か、同じく巨大な狐のしっぽにしか見えなかった。ちなみに、櫛は乾いて膨らんだ後通さないと意味がないので、多少の膨張は仕方がない。
「そろそろ切った方がいいのかな……」
 いい加減短くしても良いのかもしれないが、もったいないじゃないと言う者が一名と、俺はロングが好みだという者が一名居るのでその件は保留のままである。
「んー」
 一通り梳かし終わって、軽く伸びをする。十分に柔らかくなった身体は、何処までも伸びそうだ。
「ん……?」
 そして、そんな中身も外見もふわふわした頭で、彼女はそれを見つけてしまったのである。

 翌日。ついでに言うと昼休み。
 折原浩平は満足顔で食堂から戻って来た。今日は住井との賭(学食でみさきと大食い勝負。住井がチャレンジャーで勝ちを、浩平が絶対負けに賭けた。結果は言うまでもない)で食堂に籠もっていたのである。ちなみに彼の背後で真っ白に燃え尽きた住井本人が居るが、今は何もいっても反応しないので放って置いている。どうも負けた方が全額持ち+掛け金支払いが堪えたらしい。
 彼自身の早食いの才のせいか、教室では未だ大半が昼食タイムであった。教室の一角では瑞佳と留美が机をつきあわせて食事を取っているし、別の一角では浩平と同じごく一部の生徒がそれぞれの食休みを過ごしている。そのごく一部からひとりが、浩平を見つけて席を立った。
「お。早いな、茜」
 傍らには小さな弁当箱がある。まさか残したんじゃないだろうな。ふとそんな気がした。
「はい、その……訊きたいことがあって」
「訊きたいこと?」
 自分の席に戻り、座って聞き返す(住井はその時点でふらふらと彼の席に戻っていった)。しかし彼女が何故か赤面したまま何も言わないので、手振りで続きを促した。

「はい。その――浩平、子供を産むにはやっぱりその……安産体型の方がいいですか?」

 その台詞で、教室中が茜を中心にして放射状にドミノ倒しとなった。留美は盛大にひっくり返り(弁当を両手で支えられたのは流石元武道家というところか)、瑞佳は思いきり吹き出して――不幸なことに牛乳のパックにささったストローをくわえたままであった。その結果――怒濤の勢いで逆流してきた牛乳を吐き出さないよう口元を抑えて右往左往する羽目になった。彼女は浩平と違って一気飲みなんてものが出来ないし、したこともない。
 そして、爆心地にいた浩平は茜の台詞を聞いた直前の姿勢のまま、90度横倒しになっていた。
「んぐ――んぐぐぐぐんん……こぉへぇい!」
 リスのように膨らんだ頬をどうにかして戻した瑞佳が叫ぶ。同時に、
「折原っ!里村さんに何をしたぁっ!」
 箸:乙女カスタムが飛んできた。箸:乙女カスタムとは、妙に先が尖っていて、ある程度の重さがあり、使い方によっては飛び道具になりかねない箸のことである。浩平の耳から三センチ離れたところに『突き刺さった』今が良い例であった。
「あ、の、な」
 ビーンと微かに震えている箸のおかげで、ショックから立ち直った浩平が立ち上がり、席に座り直そうとする。
「何をしたって、そもそも茜に何を……な、に、お……」
 しかし、再び硬直状態に陥らざるを得なかった。正確には住井(先程の爆風で復活)をはじめとする男子一同の怒りの視線と、瑞佳、留美を含む女子一同の疑惑の視線に絡まれて、1センチも動けなかったのである。
「あの、俺、無実でありますなんですけど……」
 申し訳なさそうにそう言ってもからみつく視線は変わらない。
「あかね――いや、里村さん。もう少し詳しく……説明願えませんでしょうか?でないと俺もといわたくし、多分よってたかられてボコで御座います……」
 冷や汗をだらだらとたらしながら懇願したのだが、当の茜は赤面したまま、
「嫌です……浩平にしか言えません……」
 と言ってしまったのだから溜まらない。数名の男子が立ち上がり、拳を鳴らせはじめた(留美を含む)。
「じゃあ、頼むから俺にだけ詳しく話してくれ!ここにいる連中にはしっかり訳すから!」
 瑞佳が数名の女生徒とひそひそ話をはじめているのに怯えながら(本気で怒った瑞佳の方が、留美より数倍恐い)、なお懇願する浩平。
「それなら……」
 少し赤面して、茜はそっと耳打ちする。その様子で立ち上がっていた男子のうち数人がさらにボルテージを上げた(留美を含む)。
 そして、聞いていた浩平のその表情がみるみる変わっていく。
「……そうか。それは、困ったな」
 腕組みをして、深刻そうに頷く。
「確かに、俺にも責任の一端はある」
 さらにうんうん、と頷くものだから、教室の疑惑の渦は、確信へと変わり始めた。
「それに対する解決策は、ひとつしかない。今、はっきりと言うぞ」
 いつになく真面目な表情で、折原浩平は、茜の目を見つめる。そして彼女を小さく頷いたのを確認すると、こう言った。
「甘いもの、控えろって」
「嫌です」
 再び教室は将棋倒しになった。吉本新喜劇でもそう上手くはいかない見事な連鎖である。
「……ねえ、浩平。さっきの安産がどうのと、その甘いものでなんか関係あるの?」
 そのなかで、どうにか留美と共に立ち上がり、瑞佳がそう訊いた。
「いやな、昨日風呂上がりにたいじゅ――」
「訳して無いじゃないですかっ」
 そう言って、両手で浩平の口を塞ごうとする茜。
 しかしそれよりも迅く、すぐ側を何かが通り抜けた風切り音と、ぼすんという全体重を載せた拳が見事目標にめり込むような音がした。事実、綺麗な放物線を描いて浩平が宙を舞っている。
「乙女の恥じらいを、私と瑞佳だけとはいえ、そう簡単に漏らすんじゃないわよ、浩平。それと里村さん、この馬鹿にそう言う相談はやめておいた方がいいわよ。ロクな事にならないから」
「……多分二人とも聞いていないと思うよ。七瀬さん」
「え?」
 瑞佳にそう言われて留美が振り向くのと、痙攣していた浩平が嫌な体勢のままピタリと動かなくなると、茜が駆け寄るのがほぼ同時であった。
 そして当の浩平は薄れ行く意識と感覚の中、大きな河の向こう岸で幼い頃の瑞佳が『えんえんはあるよ。ここにあるよ』とか言って手を振っているを見ていたが、それは何か違うような気がしていたのである。

Fin