
話は一気に飛ぶが、キャプテントリップが発足した時の話。マァブル入って1年目たったかなぁと云う頃か。
当時マァブルは吉祥寺の分家で練習していて、此処で店員だった英ちゃんと知り合って、後にジンタでタイコを叩く訳だが、今でもルケーチの練習で時々御世話になっている。
夜の練習で、終わりは何時も終電が無くなる時間。よく皆で夜食を食べたりしたもんで、其の日も五日市沿いのラーメン屋で舎利詰めをして、さて車に乗ろうかって時。突然松谷さんが、「俺はレーベルを作る宣言」をした。
何時まで経っても話が前に進まない、しりあがり寿のおさるのロッカー孫悟空みたいなこのコーナーであるが、続きを書くのをすっかり忘れておったヨ。
松谷さんとのあんまりな初めての会話を後、俺は大学生活がめっきり忙しくなって、何せ八王子の山のてっぺんにある大学だったもんで、街へ出て遊んだりなんてろくすっぽやらなかった。よって、次にマァブルのライブを見たのはうんと後になる。
其の話の前に、まずはある大学の団体の話をしないといけない。
前夜前夜って、何時夜が明けるんだって話だが、実の所加入しちゃった後はよく覚えて無かったりして。
3周年記念ライブの後は、当時オープンして間も無かった三軒茶屋ヘヴンズドアである。三軒茶屋と云えば人見記念講堂、あぁ懐かしやオールマン・ブラザーズ・バンド来日。
マァブルとわたしと云うか殆どわたしとわたしの様を呈して来たが、じっと我慢の子であった(古いよ)、本当はさっさと終わらすつもりだったんだが。
要するに唯の想い出話、世界に発信してどうなるもんでもなし、同じ恥なら徹底して頭の中の物を全部記述したれってな按配である。
てな按配であるんだが。やり過ぎたかなぁやっぱり。
てな按配と云えばタオレコ、もう更新しなくなって1年経ってしまったなぁ。
それと、じっと我慢の子であった、此れ俺がまだ幼稚園児の頃、転んだりどっかぶつけたりして泣きそうになるとおとんが良く云ってて、そう云う云い回しが世の中あるのだとばかり思ってたんだけど、仁鶴のボンカレーのCMじゃねぇかよ!騙された!
大体が、こんな個人的な音楽遍歴をつらつらと書いてどうなると云うのか、己は一体何程のもんじゃ、唯のサラリーマンじゃねぇか、と云う声も有ろう。
だが俺は云う。其れがwebと云うものなのだ!と。
自己肥大は、戦後民主主義教育の個性尊重主義に毒された現代の若者の病理である。自分が何者かを問う前に、自分には何かが出来るのだと云う根拠レスな自信。レコード会社の倉庫に眠るデモテープの山。其れは此の教育体制が続く限り、避けえぬ事態である。確かに全く甚だ迷惑な話に違いない。
だから、肥大した自己、謂わば精神のキップルちゃんは何処かへ捨てねばならない。webとはそう云う物と俺は見て取った。
だから良いじゃねぇか!
まずは1987年の事から始めよう。
17歳ともなると段々と昔のロックなぞも聴き始める訳で、其れ以来ちゃんとリアルタイムで世の中と感動を共有した記憶がさっぱり無い。個々のバンドや曲単位では有ったにしろ、おマンチェだのグランジだの、窓の外の出来事の様に思ってて、何か聞き分けの無い息子にグレられた気分だった。