柳生に関するメール紹介

以前にもメールを頂いたガンマさんから
裏柳生と列堂について、まことに興味深
い指摘を頂きました。是非皆さんにも読
んで頂きたいと思います。

 おひさしぶりです、と言ってもずいぶん前に1度だけ メールを送っただけなのでもうお忘れだと思いますが(^^; ガンマともうします。

 今回『子連れ狼はいつの時代の話なのか?』を読んでおもわず メールしてしまいました。 僕も柳生の史料とかを、機会が有れば注意して見たりするのですが 昔から年表と言う物に関心が持てないせいで、今まで子連れ狼が 赤穂浪士とバッティングしてるとは全然気付きませんでした(^^)

 印玄さんが、なんと言う資料を発見されたのか判らないので これから書く事は、すでに知っておられるかも知れませんが 僕の手許に有る資料には、列堂についてかなり熱い(というか妄想 の膨らむような)(^^)記述がありますので、とりあえず 書いてみます。
 宗矩が死去して列堂が受け取ったのは確かに200石ぽっちなのですが これは宗矩が病床で、家光の下問に答え石舟斉の菩提寺として芳徳寺の建立と 六丸(六郎のことです、僕の資料ではこうなってました)をそこの 住職とすることを、わざわざ希望した結果(宗矩の遺言らしい遺言と言えるのは これぐらいだそうです)の芳徳寺の所領としての分配ですから これは冷遇されていたというよりも、複雑な政治的立場にある柳生家から 溺愛してた(と思われる、晩年にできた子供だし…)六丸を離して 静かに暮らさせてやりたいという、宗矩の親心だと思うのですが どんなもんでしょ?(^^)

 しかしこのあと列堂は(というかこの時点では義詮(仙)) ぐれます(^^)しかも、宗冬とはなはだ仲が悪かったらしいです(^^; ぐれたから仲が悪かったのか、仲が悪かったからぐれたのかは判りませんが (若き母お藤と兄宗冬の仲を誤解したため、という憶測もあるらしいのですが 公式記録には何一つ明記されていないそうで)列堂は一時仏門修行に精進せず、 芳徳寺を飛び出して宗冬が死去するまで(列堂39歳…)芳徳寺に戻らなかった そうです。

 宗冬の列堂に対する嫌い方は尋常ではなく、よっぽどのことがないとここまで 嫌わんだろうと言うぐらいきらってます。 何しろ遺言で、列堂の事を『やつは気狂いなので、うだうだ言うなら打ち捨て か押し込めにしてくれ!』とまで言ってます。

 原文は、『列堂儀一円心も直り不申、神文を破り、其上気違同前の体 何共絶言語候間、もはや成間敷候。いか様に申候共、寺の為に候間、住持に直し 候儀無用に可被致候。若気違に候あいだ申分などいたし候はば、見合わせ候而押 込候欺、打捨にいたし候而両様のうちに相究可申候。』

返り点とか打てないので (^^; 読みずらくてすいません。

 なぜ両者の関係が、ここまでこじれたのか妄想はふくらむばかりです(^^)

これらの資料は、新人物往来社のその名も「柳生一族-新陰流の系譜-」という 昭和46年発行の本です。定価850円カバーにしみが付いたりしているにも関 わらず、プレミアが付いて1500円で古本屋に売っていたのを 思わず買ってしまいました(^^;

 どうでしょう?なんかの参考にでもなれば幸いです。 これからの子連れ狼の時代考証でやってもらいたいのは山田朝衛門との 関係でしょうか?(^^)あの時代の朝衛門は本当に三代の吉継だったのか? 部屋のどっかに山田家の年表ってあったと思うんですが埋まっていて 掘り起こせない状況なので(^^;

長々としたメールになってしまいすいません。 それでは、失礼いたします。

追伸
ところで、たしか明日から「影武者徳川家康」ですね。二郎三朗が高橋英樹 (いやに男前のたぬきおやじだな)なのはいいとしても、やはりビデオ録り なんでしょうか(T_T)全10回だそうだし…

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