廃線跡 有馬鉄道(兵庫県)

二郎の築堤

有野町二郎を貫くように続く築堤


近くに廃線跡があると知ったのはつい最近のこと。

JTBキャンブックス「廃線跡を歩く」(宮脇俊三氏編著)の兵庫県にある廃線跡を見ていて 有馬−三田間を列車が走っていたことを知る。
廃線になった年度から戦争が原因であったことなどが推測された。
現在 有馬−三田間は神戸電鉄が走っている。この短区間に別の鉄道も走っていたのだろうか?
有馬鉄道とは神戸電鉄のことではないのか? もしくは神鉄の路線と重なっているということはないのか・・
いくつかの疑問が頭をもたげて来て 少し調べてみることにする。

数日後 koharuが「有馬鉄道は神鉄より先に 別に走っていたと本に書いてあった」と情報を持って来た。
神戸新聞社出版の「むかしの神戸」にその記載があり 片岡直温らが設立した有馬鉄道は戦争で廃止になったとあった。

  ◎片岡直温(1859-1934) 実業家、政治家。土佐出身。日本生命保険の創始者。
   若槻内閣の蔵相時代不用意な発言から銀行の取り付け騒ぎを引き起こし金融恐慌を招く原因となった。



大正4年4月 三田 有馬間(12.2km)の開業。有馬、有馬口、新道場、塩田、三田の五駅。すぐに鉄道院が借り上げ 鉄道院により運行されたので 会社は単線と駅舎だけを有し 車両は一両も所有していなかった。
所要時間31分〜40分 運賃は19銭で一日9往復。 戦時中の金属回収でレールを供出しそのまま廃線になってしまったとある。

神戸電鉄の創立が大正15年 開業が昭和3年なので 神鉄より10年以上も前から有馬鉄道が走っていたことになる。
だったらいったいどこを走っていたのだろうか? 興味がふつふつ沸いて来る。

大阪府の合同庁舎にある建設省国土地理院に行き 古地図を見せてもらったら神鉄とは違うルートを走る有馬鉄道がくっきりと見え 思わず歓声をあげた。
コピーを送ってもらう段取りをして待つこと一週間。

最新の地図を買って来て照らし合わせる。素人にはなかなか特定がしにくい。
本屋に取り寄せを頼んでいた宮脇氏の「鉄道廃線跡を歩く2」に有馬鉄道が載っていたので それを参考にしながら軌跡を照らし合わせる。

koharuと二人で地図を辿る。今まで何も思わずに通ってたところを昔列車が走っていたのだ。それは新鮮な驚きだった。 子供達が友達と走り回っていたところを列車が走ってた・・・・・線路の跡が残っているのか 列車が通ってた跡があるのか。 胸を躍らせ 地図と「廃線跡を歩く2」を持ってkoharuと二人 車で巡ることにする。



JR三田駅 線路 JR三田駅からスタートする。
JR福知山線三田駅は神鉄三田駅と並んでいる。三田駅の南の道からすぐ東の踏切を越え 右折すると右手にはたんぼが広がり その中をJRが 往来する。
下り線が有馬鉄道の跡だと「廃線跡を歩く」にはある。ゆっくりカーブを描く辺りから有馬鉄道は南へと分岐する。分岐点ははっきりとは わからない。


環境センター前 分岐地点から川を越えた環境センター前の道は南へと向かう線路跡。この日始めて線路跡を踏む。
あちこち工事はしているものの この道路は残りそうだ。


塩田駅周辺 塩田駅があったであろう場所近くには民家が一件。周りはほとんどたんぼで民家が点在している。このたんぼの真ん中を列車が走っていたのだ。
既存の道路と線路との交差付近を探して走るが それらしき道をわずかに見つけたりしたが特定できない。



川沿いの引き込み線跡 引き込み線が古地図に記載されていて それは堤防沿いである。緩いカーブとなって残っている辺りだったのだろうか。




盛り土が残る 川沿いに戻り 堤防から降りて来た道を戻ると 民家の横に盛り土が残っている地点を見つける。
そこから少し先で川を渡り 三田有馬への主要道路(現在のR176)を横切って新道場駅へと向かって行く。



R176との交差 線路に沿って建つ民家 R176はバイパスが通り 渋滞のメッカであった旧道は車の往来が極度に少なくなっていた。
その旧R176との交差は道路を挟んで北に少しと南には道場駅に向かって民家の横をカーブを描いて伸びている。


神鉄道場駅と並ぶ地点 突き当たり 廃線跡は神鉄道場駅の真横を通り過ぎ 少し先でとぎれている。その先には川がある。


川に残る橋台 橋台 道場の旧街道の趣が残る商店街を抜けて 川の向こうに回るとコンクリートの橋台が残っていた。
その付近に有馬鉄道の新道場駅はあったようだ。
駅跡は軌跡より広くなって民家が建っていた。
そのお宅にお住まいの男性にお話を聞くことができた。



通行止めの岩 廃止になった後の用地を買い上げた人が車の進入ができない様に大量の岩を置いたということだったが その人の非業の死の後 今は神鉄の用地に なっていると言うことだった。

有馬鉄道にまつわる暗い話を聞いて少しドキッとしたものの 気を取り直して先へと進む。


空き地に鉄筋が目印 空き地に鉄筋が目印 空き地に鉄筋が目印 道場町からいったん有馬街道に出てすぐを右折して八多町へ。 神鉄の用地ということで周囲には鉄筋が打たれていて廃線跡はそのまま手つかずで残っている。


廃線跡は八多町から二郎へと進む。有馬街道を南下しつつ脇道を探す。左手に平行して有馬鉄道が走っていたことになる。
有馬街道は途端に車が多くなりゆっくりしていられない。取り合えず脇道を左に逸れる。進むとぐんと上り坂になって 坂の途中に工事現場があり その右手に鉄筋列を見つけるが 止まるところがないまま通り過ぎ Uターンしたもののそのまま有馬街道まで戻ってしまう。
別の脇道を探そう。

農道を越える築堤 農道を越える築堤 農道を越える築堤 農道を越える築堤 病院横の農道を入るとそこに「廃線跡を歩く」に載ってた写真の建造物がある。まるで農道を越える為にだけ作られた様だ。
いつも来てた筈なのにこんな建築物があることさえ気づかずにいたことに驚きさえ覚える。




畑の中にくっきり築堤が続く。今にも列車が走ってきそうな気さえする。 ◎クリックするとトップの画像に飛びます

中国道沿いへと続く 中国道沿いへと続く 築堤はゆっくりカーブを描きながら中国道沿いへと続く。
中国道との交差地点はちょうど西宮北IC付近になるのだろうか。


中国道を越えた地点 高架をくぐり中国道の南側に出て 中国道沿いを少し西にもどると中国道で途絶えた廃線跡が復活する。
ここから有馬口駅までは生活道路となって残っている。


有馬口駅付近 田尾寺−R176間を結ぶ県道だか市道だかを越えて道なりに進むと有馬口駅跡と思われる少し広くなった地点がある。
駅前橋と名付けられた橋が名残をとどめている。


橋を渡る 大きな道路が何本かあるのにこの道路は車がひっきりなしに通る。
流れに乗って川べりまで進むと橋があるが 当時の古地図には該当する川が見当たらない。 その先の大きな川とも接点はなさそうだ。ここで途絶える。


消防署前の信号から大きな川にかかった橋を渡り すぐ右に曲がって廃線跡を探すがこの辺りは開発が著しく特定ができないが 古地図をトレーシングペーパーで トレースして新地図に貼り付けた廃線跡は病院が建っている辺りを貫いていた。


有馬から山を抜けた地点か? その道を進むと山道らしきところにさしかかる。今にも列車が警笛を鳴らしながら走ってきそうな雰囲気だ。
有馬から山を抜けて出て来た地点になるのか?
が 阪神道路公団の通行止めの看板に進入を諦める。
阪神高速道路北神戸線が山口町方面に抜けると聞いていたが この廃線跡が寸断されるのかも知れない。
それとももう工事は始まっているのか・・・


暗くなりかけていたことでもあり 写真も撮れなくなりそうなので 有馬までの廃線跡は次ぎの機会とすることにして koharuと自宅に引き返す。

次回は 通行止めだから反対方面(有馬側)から辿ると言う方法もあるが なんとか入らせてもらえないか道路公団に確かめてみよう。