「何かが足りない気がする……」
 と、国崎往人は言った。
 真っ昼間の神尾家、その居間。
 忌忌しいことに風はそよとも吹かず、扇風機の奮闘も唯々空しい風切り音を奏でるのみである。
 だから当然、暑かった。それは軒下の日陰に居ても同じことで、故に神尾家の居間に居た人物――国崎往人、霧島佳乃、遠野美凪、みちる、そして人物ではないがポテト――は皆汗だくであり、それぞれ思い思いの格好で、暑さを凌いでいた。
 そこへ、国崎往人の先程の発言である。
「何が、足りないの〜?」
 畳の上に寝っ転がっていた佳乃がそう訊いた。
「わからん、わからんから何かと言ったんだ」
 ちゃぶ台の上に顎を載せている国崎往人が、流れる汗をそのままに答える。
「クーラー……でしょうか」
 こちらは普通に扇風機のそばに座り、団扇で微風を増幅していた美凪が呟くようにそう言った。
「いや、あれは冷え過ぎる。この暑さの前じゃ欲しいと思うけどな。それと、この家は隙間が多いからあまり効率的じゃない」
 と、珍しく疎いはずの科学的な話をする国崎往人。
「それに、俺が言いたいのはこの暑い夏に添える何かなんだ」
「それじゃあ朝顔の観察日記?」
 霧島佳乃が訊いた。
「違う」
「……ラジオ体操?」
 遠野美凪が訊く。
「それも違う」
「そんなことよりさ、泳ぎにでも行こうよ。折角海があるんだし」
 美凪に膝枕をしてもらっていた、みちるが額の汗を拭いながらそう言った。
「ぴこ〜」
 同意するように、胴体を廊下の板の間に寝かせていたポテトがそう鳴く。
「それだ!」
 そして、国崎往人が膝を強く叩いた。
「水着だ、足りないのは」
「「「……泳ぐじゃなくて?」」」
 佳乃、美凪、みちるの声が、珍しく唱和する。



『国崎往人と何か足りなかったもの』



■ ■ ■



 結構急いでいるつもりである。
 急いでいるつもりだが、この暑さで全力疾走は危険であることは、経験済みであった。
 だから、神尾観鈴は家へと小走りで急ぐ。
 周囲から見れば、それは速めに歩いているのと同じなのかもしれない。
 けれども、やっぱり急ぎたかった。
 自分ひとりが補習で皆を待たせているからである。
「ただいまー」
 汗を拭き拭き、神尾家の玄関をくぐる。
 居間には、佳乃も美凪も、みちるとポテトも、そして国崎往人もしっかりと居た。
「あ、みんな待ってくれたんだ。嬉しい」
 つい口に出してしまったその言葉で、赤面してしまう。まるで皆を信用していないようにも聞こえたのではないかと危惧し、続いてそんな自分の迂闊さに恥ずかしくなってしまったためであったのだが、どうやらそれは杞憂に終わったようであった。
 ひとつ観鈴を弁護するとするなら、今まではそう言ったことすらなかったを挙げておきたい。そう言う意味で、嬉しいという言葉は観鈴の本心であったのである。
 そんなこんなでやっと落ち着いた観鈴であったが、同時にちょっと気になることがあった。皆、何かが入った袋を持っていたのだ。無論、ポテトは除くが。
「観鈴――」
 腕を組み、重々しく俯いていた国崎往人がそう声をかけた。
「うん、なに?」
 すぐさま観鈴が返事をすると、国崎往人はゆっくりと顔を上げて、観鈴を直視する。
「ゆ、往人さん?」
 今までであまり見たことがない国崎往人の真面目な貌に、少々戸惑ってしまう。
「観鈴、服を脱げ。今すぐだ」
「……え?」
 観鈴の顔が、たちまちにして真っ赤になった。



■ ■ ■



「意外だったな……」
 海をと至る坂道を降りながら、国崎往人はそう言った。
「観鈴が怒ると、あそこまで恐いとは」
「吃驚だったねー」
 と、佳乃。いつも通りの笑顔を浮かべているように見えるが、何処かぎこちない。
「だから人間は面白いと、何処かの死神も言っていました……」
 唯一ペースを崩していない美凪が、そう言った。
 当の観鈴はと言うと、上機嫌に歩いている。
 皆、手に水着や着替えが入った袋を持っていた。
 行き先は言うまでもなく、海である。
「人、居ないな」
 武田商店の通りと堤防を越え、海側に降りられる階段を探し、砂浜に着く。なるほど、夏の盛りだというのに国崎往人の言う通り人の姿が無い。
「隣町に大きな海水浴場あるしね」
 と、観鈴。
「砂浜としても規模小さいしねぇ」
 佳乃がそう補足した。その間に、美凪とみちるがビニールシートを敷いて行く。
 確かに、海の家は疎か屋台の出店も難しいほど、砂浜の幅は短い。
「で、着替えはどうするんだ?」
「ここじゃ無理だよ」
 と、佳乃。確かに遮蔽物など一切ない。
「じゃあどうするんだ」
 俺はバスタオルを腰に巻くだけでいいが……と国崎往人が続けると、
「こうするんだよ〜」
 にかっと笑って、佳乃がスカートをまくり上げた。
 国崎往人は反射的に視線を避けようとし、認めたくない若さ故の過ちでまくり上げられた元へ視線を戻し、そこで脳裏に佳乃の姉である霧島聖の切れの良いメスの煌めきを思い出して再び視線を逸らせた。
「大丈夫だよぉ、往人クン。お姉ちゃん周囲にいないし」
 そんな佳乃の一言で、国崎往人は己の理性に打ち勝った。
 打ち勝ったは良いが、佳乃は服の下に水着を着込んでいたのである。
「では私も……」
 着ていたワンピースの襟元に手をかけ、美凪が上からひとつひとつゆっくりとボタンを外していく。
 そして胸元が見える寸前で襟をわざと合わせると、前を隠しながら器用に裾までのボタンを外していき……最後に襟合わせを両手で持って、ふわりと脱ぎ去った。
 無論、下は水着である。そして、丁寧に服を畳むと、
「ネタがばれているとお色気も低下……」
「いや、その前にそういう仕草を何とかしろ」
 正直、ぞくっと来てしまったが言える訳がない国崎往人である。
 と、そんな彼のズボンのベルトを引っ張る者がいる。
「往人さん……」
 観鈴であった。
「どうした。まさかお前、下に着てないとか言うんじゃないだろうな」
 観鈴の顔が、恥ずかしさで赤くなる。
「まじか」
「――うん」
「……どうするんだ?」
「どうしよう……」
「わたしに、良い考えがあります」
 片手を挙げて、美凪がそう言った。



 美凪の提案はこうである。
 まず、観鈴を堤防の近くに立たせる。
 次に、国崎往人が特大タオルケットを広げて掲げ持ち、観鈴の顔辺りにまで持ち上げる。
 最後に、観鈴が堤防とタオルのすきまで着替える。
 上から見れば丸見えである点は、完全に黙殺された。
 と言うか、佳乃と美凪が黙殺したのである。
「ゆ、往人さん、見てないよね!?」
 下から着替えれば露出は減るのに、それに気付かず上から着替えている観鈴が、随分と焦った声でそう言う。
「み、見てない見てない見てないっ!」
 何故か神尾家の箪笥にあった短パン状の水着を着て、タオルを掲げ持つ国崎往人も随分と声が上擦っていた。
 その様子を、青のセパレートに身を包んだ佳乃と紫色をした競泳用姿の美凪が微笑まし気に遠くから見ている。
「……ぴこ〜」
 波打ち際で、ポテトが鳴いた。
「わかってるよ、あんなことしなくたって良いってこと」
 当然のように、スクール水着を着用していたみちるがそう答える。
「でもね、美凪達がしたいんだから、そうさせてあげようよ」



 観鈴の水着は、白いワンピースであった。リボンも柄も付いていないところが、観鈴のスタイルの良さと相まって、却って清々しく感じる。
「似合うぞ、観鈴」
「あ、ありがとう……にはは」
 国崎往人の素直な感想に、髪をいじりながら照れる観鈴。
「でも、水に濡れたら透けないか? それ」
「え、透けるの?」
 途端、観鈴が不安そうに眉根を寄せて、国崎往人は余計なことを言ってしまったと後悔した。
「大丈夫だよぉ! 根拠は無いけど!」
 と、慌てた様子で佳乃。
「最近の素材は透けないんです」
 美凪が冷静にそう補足する。
「……うーん」
 でも透けたらやだな……そう続けながら観鈴は渚に寄ると海水を手で掬い、慎重に腹部にかける。
 ――待つこと十秒。
「良かった、透けなくて」
 観鈴は、安心したように微笑んだ。
 安心したのは彼女だけではない。国崎往人を含め、一同ほっとしたように息を吐く。
「これ、自分で買って来たの。ちょっと前に、夏休み用にって」
「へぇ、そうなんだぁ」
 興味深げに佳乃が相槌を打つ。
「おひとりで、買いに行ったんですか?」
 こちらも興味を抱いたのか、美凪が訊く。
「うん。だってお母さん、恥ずかしい水着買って来るし」
「恥ずかしい水着?」
 最後に国崎往人も興味を持って、そう尋ねた。
「うん。Vの字になっているの」
「下が鋭角か。それはまた――」
 つい想像してしまう、国崎往人。
「ううん、全体が」
「……全体?」
「それは、カーニバルやグラビア雑誌で見かけるものじゃないかなぁ?」
 と、佳乃。
「後、国崎さんの脳内です」
 思い切り鋭い美凪の指摘。
「で、着たのか」
「一回だけね。でも恥ずかしかった。何か色々浮き出ちゃうし」
「う、浮き出る……」
「おまけにあっちこっちがきついし、ぽろぽろはみ出そうになるし」
「は、はみ、はみ出――」
「出たんですか?」
 会話不能の国崎往人に代わり、美凪が訊く。
「うん……少しだけ」
 そこまでだった。
「い、いやっほーぅ!」
 突如海へ飛び込む国崎往人。彼にはそうしなければならない理由があったのである。
「刺激が、強すぎましたか」
 バタフライで沖合に突き進む国崎往人に、少し頬を赤く染めて、美凪。
「……怒れば良いのかな?」
 こちらは真っ赤になったままの観鈴。
「そのままでいいんだよぉ」
 そんな観鈴の肩をぽんと叩いて、佳乃が笑った。
 わからなかったことにしておくとばかりに、みちるが砂を蹴っ飛ばす。



 砂浜は小さかったが、海は泳ぐのに適していた。国崎往人達くらいの人数であれば、この辺りは海水浴に最適であったのである。
 ちなみに、五人と一匹は技量の差はあれ、ちゃんと泳げていた。
「っていうかだな」
 全員で沖合から砂浜を目指すレースで、見事二位を取った国崎往人が、ゆっくりと水から上がりつつ呟いた。
「ポテトが一番上手いってのは、突っ込みどころか?」
「まぁ、ポテトだしねぇ」
 真後ろにいた佳乃が、耳に入った水を抜きながらそう言う。その少し後を美凪とみちる、ラストの観鈴はまだ頑張っていた。
「じゃあそれは置いておこう。だけどな……何か、でかくないか? ポテト」
 完全に海から上がっている普段は座敷犬サイズのポテトが、チャウチャウ並みの大きさになっていた。それも、縦横高さが万遍なく大きくなっているため、結構怖い。
「きっと海水を吸ってふやけちゃったんだよぉ!」
「――そうなのか?」
「びご〜」
 妙に野太くなった声(?)で答えるポテト。
「ふぅ、やっと着いた……」
 砂浜に胴体着陸した観鈴が、美凪の手を借りてゆっくりと立ち上がる。
「でも、楽しいね」
 そう言って笑う観鈴に、思わず顔を合わせてしまう国崎往人達。程なくして、彼らも笑って頷いた。
「さて、この後は何をしようかぁ!」
「西瓜割りはいかがでしょう?」
 何処から取り出したのか、大きな西瓜をビニールシートに置きながら、美凪。
「用意良いな、お前」
「……えっへん」
 嬉しそうに、美凪。
「美凪、胸を張るのは良いけど、身体の線出ちゃって国崎往人の視線が固定されちゃうから、そらせすぎないようにね」
「誰の視線が固定だって?」
「お前のことだ国崎往人っ! 見るならかみやんのだけにしろー!」
「そもそも見てないっての!」
「まぁまぁ、ふたりとも……」
 くすくすと笑い出した佳乃の隣で、観鈴がふたりを抑える。
「それで、西瓜割り誰がやるの?」
「俺は食う方に回る」
 早々に国崎往人。
「はい! 推薦っ、観鈴ちんに一票!」
 と、元気に挙手して佳乃。
「私も神尾さんに一票です」
「じゃあみちるも」
「ぴこ〜」
 いつの間にか元の大きさに戻ったポテトも器用に挙手。
「えっと、往人さんは?」
「だから俺は食う方だって。そして、皆の意見に賛成だ」
「オッケー! 全会一致で決まりましたぁ!」
 ガッツポーズを取りながら、佳乃がそう宣言した。
「さぁ頑張れ観鈴ちん! 侍ポニテが伊達じゃないこと見せちゃえぃ!」
「さ、さむらいぽにて?」
 自分のポニーテールを抑えながら、恥ずかしげに観鈴。対して国崎往人達は、あぁと納得していた。
「剣道とか得意そうに見えるもんな。髪形だけだと」
「そ、そうかな?」
 照れる観鈴。
「うに、剣道というと……」
 みちるが呟く。
「『ムサシGUN道』!」
「『俺は直角』――でしょうか」
 随分と片寄っているふたりである。
「んに〜、何でそこで川澄舞って出ないのかなぁ……」
 不満そうなみちるであった。
「俺はどっちかというと『るろうに剣心』だが――まぁそれはどうでも良い。西瓜の位置はこれくらいか?」
 美凪から貰った西瓜と、下に敷く新聞紙を少し放れた位置にセットしながら、国崎往人。
「丁度良いと思います。さぁ、神尾さん」
 そう言って、鉢巻きと手頃な棒を手渡す美凪。
「あ、うん、ありがとう……」
 受け取った鉢巻きで目を隠し、棒を掲げる観鈴。その構えは、不思議と様になっていた。
「それじゃあ行っくよー、観鈴ちん、前進!」
「うん……」
 静かにすり足で進む観鈴。
「ちょい右だ」
 すぐさま、国崎往人が声を飛ばす。
「少し左に調整してください」
 ややあって、美凪がそう言う。
「かみやん、後三歩でストップ」
「う、うん」
 ぴたりと止まる観鈴。
「……これは、行けるな」
 小声でそう呟く国崎往人に、黙って頷く、佳乃、美凪、みちる。
「行けっ、みすず!」
「うん、わたし頑張る!」
 そう言って観鈴は大きく息を吸い、
「えいっ!」
 振り上げた棒はその手をすっぽ抜け――。
「ぐえっ」
 国崎往人の脳天を直撃した。
「ゆ、往人さん!?」
 鉢巻きを取った観鈴が、仰向けにぶっ倒れた国崎往人に向かって慌てて駆け寄る。
「やっぱり、落ちが来るか……」
 国崎往人がそう呟く視線の先には、白い入道雲が青い空と共に在った。



「ふぅ、たっぷり泳いだねぇ……」
 水着の上に肩からバスタオルを引っかけ、佳乃が満足気にそう言った。
 既に夕暮れ時、神尾家に到る帰路である。
「こういった夏休みは、久しぶりでした」
 同じく水着の上にヨットパーカーを羽織った美凪がそう言う。
「わたしは――はじめてかな。こんな夏休み」
 国崎往人から予備のTシャツを借りて水着の上に着た観鈴がそう言った。
「なに、これからはいっぱいそう言う夏を過ごせる」
 ひとりちゃんと着替えた国崎往人が、そう言って観鈴の頭に手を置く。
「……うん。そうだね、往人さん」
 そう言って、笑う観鈴。
「ね、夜は花火しない? うちの診療所にたあっぷり余っているんだよぉ」
 今思いついたとばかりに、佳乃がそう言う。
「賛成です」
「みちるもー!」
「俺もだ。観鈴、お前は?」
 ひとり俯いていた観鈴に、国崎往人がそう訊くと、
「うん、賛成っ」
 顔を上げて、観鈴はそう言った。
 ……そうだよね、ずっと続くよね。
 直後に呟いたその言葉は、ひぐらしのなく声がかき消していた。

 夏休みは、まだまだ続いていく。



Fin.







あとがき



 AIRとくれば当然夏ですが、劇中に全く出てこなかったものがあります。
 それは、水着――というわけで今回の話が生まれました。
 ちなみに私は旅行にこそ行きましたが、今年はまだ泳いでいなかったりしますw。
 さて次回は……、未定で(最近こればっかだ;)。

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