『健康診断とコーラ』



「あれ、栞ちゃん?」
 聞き慣れた声でそう呼ばれて、美坂栞はスケッチブックから顔を上げた。
 街の中心部からそれなりに離れた病院の、それも午前のことである。故に、知り合いに声をかけられるなど滅多に無い。
 けれども、栞の視線の先には良く知る人物――最近になってやっと出会った当時の髪の長さに戻った――、月宮あゆが無頓着に手を振っていた。
「……あゆさん」
 思わず少し息を呑む。普段の彼女を見るに、最も似つかわしくない場所で会ったような気がしたためだ。
「どうして、こんなところに?」
 だから、思わずそんな言葉を口に出した栞に、初夏に併せて薄着になったあゆは苦笑いをすると、
「それは……ボクも、此処で数年間お世話になったしね」
 そう言って、栞の呼吸を数瞬の間止めてみせる。
「すみません、つい忘れていました……」
「いや、いいんだよ。忘れてくれた方がボクも嬉しいもん。で、こんな処で出会うってことは、検査かな?」
「はい、そうですけど……あゆさんもですか?」
「うんそうだよ。さっきやっと終わったとこ。栞ちゃんは?」
「後ひとつです」
 そう言って、スケッチブックを閉じる栞。
「そっか、お互い大変だねぇ」
 栞の勧めでベンチの隣に座りつつ屈託なく笑うあゆ。
 だが、大変さでは私以上だろうと、栞は思う。
 それは自分自身も難病を克服した身だ。
 けれども、何年間も意識不明だったわけではない。
「あ、そうだ。もう終わったんだから――」
 どうも栞に言ったわけではないらしい。あゆは肩にかけたバックからあるものを取り出すと、頭に着けた。その懐かしい赤に、栞は小さく息を呑む。
「あゆさん、そのカチューシャ……」
「うん、やっと着けられるくらいの長さになったからね」
 そう言って、あゆは嬉しそうに笑った。その笑顔に、あの赤いカチューシャが良く映える。
「そう言えば、栞ちゃんも最近、髪長くない?」
「え……」
 いきなり指摘されて、思わず自分の髪に手をやる栞。
「当たった?」
「はい……実は、お姉ちゃんみたいに髪を伸ばそうかなって。そうすれば、どっちがどっちだかわからなくなるかもしれないじゃないですか」
「バストサイズでわかるんじゃない?」
「あゆさんひどいです……」
「冗談だよ、冗談」
 と、笑って手を振りながら、あゆは謝った。
「でも、それだけ?」
「はい?」
「いや、お姉さんと入れ替わるって話。てっきりボク、祐一君をからかう為かと思ったよ」
「それは……考えてなくはなかったですっ」
 途中から吹き出してしまう。あゆも愉快そうに笑ってしまい、病室の雰囲気を思い出してふたり必死になって堪える。
「……でも、吃驚しました」
「何が?」
「あゆさんも、検査を受けているんだって」
「それはね。本当は受ける必要が無いのかもしれないけど」
 今まで浮かべていた笑みが消え、妙に大人びた表情で、あゆは続ける。
「それで、みんな――祐一君、秋子さん、名雪さん、クラスメイト、そして栞ちゃんが安心してくれるのなら、それで良いんだ」
「あゆ、さん……」
「それに、栞ちゃんだって本当は検査の必要無いんじゃないかな? お姉さんに安心してもらいたいから受けていたりしていない?」
 図星であった。
「――あゆさんは、なんでもお見通しなんですね」
 おもわず尊敬の念を浮かべてそう言う栞に、
「そ、そんなことないよ栞ちゃん」
 いつもの表情に戻り照れ笑いを浮かべながら、あゆ。
「美坂さーん、美坂栞さーん」
 そこへ看護師の声がかかり、反射的に栞が返事をする。
「そうだあゆさん、このスケッチブック預かってもらえませんか?」
「うん、いいよ。中見て良い?」
「良いですけど……後悔しないでくださいねっ」
「……や、やめとくねウン」



「随分遅かったねぇ」
 診察室から栞が戻ってくるのに、たっぷり1時間かかっていた。時刻は昼を少しばかり回っている。
「検査を一通り済ませましたから」
「一通りって?」
 興味深げにあゆが訊く。
「問診から始まって、血液、レントゲン、超音波、MRI、それに触診です」
 最後のところで、あゆは派手に噴いた。
「しょ、触診ってその――」
「はい、実際に身体の各所を触ってもらって、腫瘍などが無いかどうかを確認するための診療です」
 すらすらと、栞。姉を始め、身の回りの人に同じような反応を返されているのだ。もういい加減慣れてしまっている。
「は、恥ずかしくない? それ……」
「慣れちゃいました」
 嘘偽り無く、栞。
「ボクも一回やったけど、恥ずかしくてずっと目を瞑ってたよ。先生、女の人だったのに……」
「あゆさんらしいです」
 つい笑ってしまう、栞に、
「うぐぅ……」
 今度は拗ねてみせるあゆ。
「それよりあゆさん、良いことがありました」
「ん、何?」
「耳を貸してください」
「うん?」
 髪をかき上げたあゆの耳に口元を寄せ、栞はそっとその事実を伝えた。
「嘘っ!」
「本当です」
 どこか誇らしげに、栞。
「うぐぅ、とうとう並ばれちゃったよ。くやしいなぁ……」
「祐一さんのおかげですっ」
「ちょっと待って! それどういう意味栞ちゃん!?」
「どういう意味って……色々と背中を押してくれたことです」
「ああ、そういうことね……」
「どんなことを想像していたんです? あゆさん」
 少し意地の悪い目で、栞がそう追求する。そう、その目は明らかにあゆが何を想像していたのかを知っていた。
「うぐぅ、栞ちゃん、お姉さんに似てきたよ……」
 と、栞の姉である香里がこの場に居ればただじゃ済まないことを口走るあゆ。
「それ、最高の褒め言葉ですよ」
「そうなの?」
「はい。だって、私達が姉妹だって保証していただいているようなものですから」
「……なるほどね。さてと、これから暇?」
「はい、そうですけど」
 あゆからスケッチブックを受け取りながら、栞がそう答えると、あゆは座ったまま伸びをして、
「じゃあ、百花屋行こうよ。お昼まだでしょ?」
「いいですね。検査のために朝ご飯抜きましたから、お腹空いて居るんです」
「じゃあ決まりだね――実はボクもぺこぺこなんだ」
 そう言ってベンチから立ち上がるあゆが、何かをその視線に捉えた。
「そうだ栞ちゃん、あれ飲もうよあれ!」
「あれ? あれって何です?」
「ちょっと待っててね」
 そう言って駆け出すあゆ。行く手には、ありふれたジュースの自動販売機が立っていた。あゆは多少まごつきながらも、それに貨幣を入れ、何かをふたつ買い付ける。
「じゃーん!」
 そして掲げて見せたのは、コーラの瓶であった。しかも、今時珍しいガラスの瓶である。
「ほら、ボク達止めたれていたでしょ。こういうの」
「なるほど……確かに飲んだこと無いです」
 高カロリー、高糖分の飲料ほど、医者に止められるものは無い。ましてや酒の飲めない未成年、ドクターストップ率の高い飲み物筆頭である。
 ……なぜか、病院でよく見かけもするのだが。
「でもあゆさんは、家で飲んだこと無いんですか?」
「うん、無いよ。紅茶とかコーヒーとかお茶とか。後牛乳くらい」
「健康志向なんですね」
「うん、意外とね」
 そう言えば、水瀬家に遊びに行った際、家主の水無瀬秋子の手によるコーヒーか紅茶以外飲んだことが無いことを、栞は思い出していた。
「でも残念、王冠じゃないや」
「今時そんなもの付いてないですよ」
 そんなことを良いながら、お互いキャップを捻る。
「お互い、健康になったことを祝って」
 多少厳かな口調で、あゆ。
「あゆさんと、こうして一緒にいられることを祝って」
 栞がそう応える。
「乾杯!」
 ガラスとガラスのぶつかり合う、独特の音色が、微かに響いた。



■ ■ ■



「で、しゃっくりが止まらなくなったって?」
 水瀬家のリビングで、テーブルに肘を突きつつ相沢祐一はそう言った。
「うん――ひゃっく、どうやってもひゃっく、止まらないんだよひゃっく!」
 その向こう側でひゃっくひゃっくと言いながら、あゆが答える。
「……なぁ名雪、どうすりゃいいと思う?」
 痛そうに頭を抱えて、祐一は隣に座るいとこ、水瀬名雪にそう訊いた。
「うーん……お母さんの、ジャムかなぁ?」
「えええええ〜……ひゃっく!」



■ ■ ■



 同時刻、美坂家。
「まったくもう、気管支か何処かを悪くしたのかと思っちゃったじゃないのっ」
 栞の姉である美坂香里は、大層おかんむりであった。
「当分炭酸系飲料は、飲むの禁止! わかったわね?」
「そんなふやっ、お姉ちゃんふやっ、ひどいですようふやっ!」
「問答無用よ。名雪からもらった万能薬、秋子さんのジャムのお湯割りでも飲む?」
 久々に壮絶な笑みを浮かべる姉に、一気に真っ青になって栞は力一杯両手を振ったのだった。
「ふ、ふやっ! え、遠慮します――ふやっ!」



Fin.







あとがき



 久々のKanonでした。
 なんというか、DVDの6巻を見ていたら無性に栞の話が書きたくなって、今回の話が生まれました。どっちかというと栞よりあゆが目立ってますが……。
 あ、本文中栞があゆとどう並んだのかは内緒です。育ち盛りですから(えーw
 さて次回は……CLANNADかONEに戻ります^^。多分……。

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