大した事のない特集、第十七弾!!(03.09)
 

京極夏彦作品が孕む現実的問題「陰摩羅鬼の瑕」

ネタバレありです。未読の方は注意してください。
 

 明治、大正に起源を持つ多くの新興宗教は、もはや百年弱の歴史を経て、徐々に「葬式仏教」と呼ばれるような既成宗教に限りなく近づいており、すっかり日常に溶け込んでいる。
 しかし、呉智英氏が喝破したように、宗教とは本来「狂信」なのであって、それ単独で世の中の仕組みを全て説明しうる「逆立した世界観」なのである。
 であるからして、宗教とは、政治や科学では補いきれない人間の心を癒す「補完」的存在ではなくて、それ自体の存在がすなわち「政治」であり「科学」なのだ。
 ゆえに、究極の宗教とは、すでに成立している「政治」や「科学」とは絶対に相容れない存在であり、時の「政府」「科学」は「宗教」の力によって打ち倒されるべき存在、法敵、仏敵、神敵という事になる。

 室町、戦国、江戸を経て、既成宗教化した仏教各宗や神道には、そのような「狂信」の影を見るべくも無いが、生まれて間もない新興宗教には、宗教本来が持つ「狂信」の禍禍しさが色濃く秘められている。

 教団の成立が新しく、「狂信」の典型的例となったのが、1995年初春に発生した「オウム真理教」事件であるが、程度の差はあれ、明治大正以降に生まれた新興宗教は、いまだそのような宗教本来の持つ「狂信」を捨て去ってはいないと思われる。
 そして、「狂信」というコアを失っていない「宗教」だけが、「本物の宗教」と言えるだろう。

 それゆえ、「宗教」という存在から脱臭されてしまった一般人と、「本物の宗教」を信仰する「信徒」達の間では、色々な部分で摩擦が発生しているのだ。

 ここで問題にしたいのは、それらの宗教を自主的に信じた所謂一世信者、ではなく、その宗教の影響を生まれてからずっと受けて育った二世、三世、の話である。

 「オウム」や「幸福の科学」といったここ最近の新興宗教はともかく、明治、大正期に生まれた数々の新興宗教の歴史はもはや百年になろうとしており、信徒達も、四世に至ろうかという御時世になっている。

 無論、「オウム真理教」ほどそれらの宗教は「狂信性」が濃い訳はなく、現実的に日本の無宗教社会と折り合いを付けているのが大半である。
 しかし、それらの信徒の内部には厳然たるしきたりが存在することも事実で、それらのしきたりに幼い頃から慣れ親しんできた二世、三世の信徒は、それが日本人の一般的常識と齟齬をきたすことを、学校や社会に出て初めて学んでいく訳だ。

 ここでやっと表題に戻るわけだが、それらの二世、三世という存在は、「陰摩羅鬼の瑕」に書かれた「由良伯爵」と同じような存在ではないか?
 幼い頃より育まれた「内部」の常識で、「外部」の常識と相容れない性格を持っている。

 幼い頃に両親に、「これが我が家のありがたい神様です。これに逆らうと罰が当たりますよ。」と教えられた子供達が、そこから抜け出すのは容易ではない。

 「陰摩羅鬼」の伯爵は、京極堂に促されて、「其方側で暮らすのですか。此方側で暮らすのですか。」と選択を迫られる。伯爵は勇敢にも、外界へと一歩を踏み出してゆく。
 それは、伯爵が理知的で、人間的にも強く、秀でた存在であるからこそ出来た事である。
パラダイムシフトを乗り切るのは、並大抵の事ではない。

日本社会という外界と、自家の宗教とを二者択一で選択させられた場合、それら二世三世はパラダイムシフトを乗り切る事ができず、あたたかい家庭の待つ「宗教」へと、喜んで戻っていく事になるだろう。

 京極堂は言う。「人は人を救えないよ」「しかし、神も仏も」「そうだ。嘘っ八だ。だから人は他人に騙されるか、自分を騙すか、そうでなければ―」
自分の目で現実を見て自分の足でその場に立つしかないんだと。

 一度、現実を見て外側に立った人間にとって、内側のあたたかい家庭は、欺瞞に見える。平和的日常は虚飾に過ぎず、見かけ上の安穏に流される事にはもはや耐えられない。

 だから、自分は、日本人は、宗教を信じない。信じて得られる平和が、安心が、欺瞞に過ぎない事を皆喝破しているからだ。

だが、そういう我々は一体何処にいるのだろう。自分の足で立っているはずの関口は、現実の辛さ、信じられるものの無さにノックアウト寸前である。京極堂や榎木津は、我々凡人には理解できない彼岸の人だ。

とどのつまり自分達は、「日本社会の安穏」という別の形の欺瞞に頼るか、そうでなければニヒリズムの底なし沼に沈んでいくか、別の形の二者択一に迫られていく訳だ。

果たして、第三の選択肢を作っていく事ができるのか、それは、今後の自分の課題であるのだけれど・・・・。
 

 「陰摩羅鬼の瑕」、この小説を、新興宗教を信じる二世三世達に読んでもらえれば、彼らの完全なる世界観に、何らかの傷を与える事が出切るかも知れない。
 「君たちは、由良伯爵と同じではないか」と。閉じた内部で生きてきた純粋培養種で、不自然な存在なのだと。

 それがどういう意味を持つか分からないし、彼らにとってニヒリズムへと誘う性質の悪いポン引きまがいに陥ってしまうかもしれない。

 にも関わらず、彼らにこの小説を通読してくれ、という誘惑は絶える事がない。
彼らの、完全なる世界観に、完全なる平和に、完全なる安穏に、なぜ自分は一太刀浴びせたい、と考えてしまうのだろうか。なぜ、傷を付けたい、と考えてしまうのだろうか。

傷を付けたい。瑕を。瑕。瑕。陰摩羅鬼の瑕。
 

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