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おっさんらしく色々人間ドックで引っかかりながらも、長生きしたいオタク・・・。
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2013/03/21 :: 佐竹氏発祥の地
・
平安時代後期から安土桃山時代にかけて常陸国に威勢を張った豪族で、江戸時代には久保田(秋田)藩主となった佐竹氏の発祥の地、佐竹寺を訪ねてみた。
何でかというと、休日で暇だったから(笑)。
佐竹氏といえば江戸期は秋田の殿様だったので、未だに子孫の方が県知事を務めたりと、そちらの方ではずっと縁が続いているらしいのだが、こちらでは佐竹さんが出張ってきたとか、そういった話はあまり聞かず、割と縁が薄いのかも知れない。
しかし、この佐竹寺のある周辺は、昔は常陸国久慈郡佐竹郷と言われたところで、”佐竹”という苗字の発祥の地である。
佐竹寺の本堂も戦国時代に佐竹氏当主義昭が寄進したもので、何と1546年建造というから、かーなーりー古い。重要文化財指定。当たり前だわな。
かやぶきの屋根で高さも相当あり、風格を感じさせる外観をしている。屋根の正面には佐竹氏の家紋、”五本骨扇に月丸”が飾られている。これが佐竹寺の寺紋なのだろう。
本尊は、拝殿の扉を除いてみると、どうやら十一面観音の様子。
由緒正しき寺院ではあるのだが、現在は住宅地や農家の中にあって、ひっそり、こぢんまり、という雰囲気のお寺であった。
ただ、坂東三十三箇所巡りという寺院めぐりのルートに組み込まれているので、入れ替わり立ち代り、初老の夫婦がお参りに訪れ、絶対数はそれほどでもないにしろ、人足が途絶えることはないようだった。
自分も本堂をお参りしたあと、周囲をぐるりと一周し、風格ある建造物をデジカメで撮影してきた。
石灯籠がダメージを受けていたり、寺門の瓦が落ちかかっていたりと、未だに2年前の震災を引き摺っている模様。
以前の写真ではもっと背の高い木々に取り囲まれ、林の中に鎮座しているイメージがあったのだが、恐らく震災によるダメージの除去と復旧のため、ある程度の木は伐採されているようであった。
ひたちなかも震度6弱はあったから、こっちは6強近かったかも知れない。
元通りとはなかなかいかないだろうが、傷の癒えることを願うのみ。
!!$img1!! !!$img2!!
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平安時代後期から安土桃山時代にかけて常陸国に威勢を張った豪族で、江戸時代には久保田(秋田)藩主となった佐竹氏の発祥の地、佐竹寺を訪ねてみた。
何でかというと、休日で暇だったから(笑)。
佐竹氏といえば江戸期は秋田の殿様だったので、未だに子孫の方が県知事を務めたりと、そちらの方ではずっと縁が続いているらしいのだが、こちらでは佐竹さんが出張ってきたとか、そういった話はあまり聞かず、割と縁が薄いのかも知れない。
しかし、この佐竹寺のある周辺は、昔は常陸国久慈郡佐竹郷と言われたところで、”佐竹”という苗字の発祥の地である。
佐竹寺の本堂も戦国時代に佐竹氏当主義昭が寄進したもので、何と1546年建造というから、かーなーりー古い。重要文化財指定。当たり前だわな。
かやぶきの屋根で高さも相当あり、風格を感じさせる外観をしている。屋根の正面には佐竹氏の家紋、”五本骨扇に月丸”が飾られている。これが佐竹寺の寺紋なのだろう。
本尊は、拝殿の扉を除いてみると、どうやら十一面観音の様子。
由緒正しき寺院ではあるのだが、現在は住宅地や農家の中にあって、ひっそり、こぢんまり、という雰囲気のお寺であった。
ただ、坂東三十三箇所巡りという寺院めぐりのルートに組み込まれているので、入れ替わり立ち代り、初老の夫婦がお参りに訪れ、絶対数はそれほどでもないにしろ、人足が途絶えることはないようだった。
自分も本堂をお参りしたあと、周囲をぐるりと一周し、風格ある建造物をデジカメで撮影してきた。
石灯籠がダメージを受けていたり、寺門の瓦が落ちかかっていたりと、未だに2年前の震災を引き摺っている模様。
以前の写真ではもっと背の高い木々に取り囲まれ、林の中に鎮座しているイメージがあったのだが、恐らく震災によるダメージの除去と復旧のため、ある程度の木は伐採されているようであった。
ひたちなかも震度6弱はあったから、こっちは6強近かったかも知れない。
元通りとはなかなかいかないだろうが、傷の癒えることを願うのみ。
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■ Re:もし
└ 同じ境遇の者です at 2017/06/04 23:00:53
└ 山口 浩 at 2017/06/06 22:27:57
└ 同じ境遇の者です at 2017/06/07 0:09:51
└ 山口 浩 at 2017/06/09 0:39:19
└ 同じ境遇の者です at 2017/06/04 23:00:53
└ 山口 浩 at 2017/06/06 22:27:57
└ 同じ境遇の者です at 2017/06/07 0:09:51
└ 山口 浩 at 2017/06/09 0:39:19
■ Re:1988年2月、では何を買うべきだったのか?
└ `バビロン王 at 2015/01/09 8:03:50
└ 山口 浩 at 2015/01/11 23:04:17
└ 同じ境遇の者です! at 2016/04/18 10:20:19
└ 山口 浩 at 2016/04/20 0:03:53
└ `バビロン王 at 2015/01/09 8:03:50
└ 山口 浩 at 2015/01/11 23:04:17
└ 同じ境遇の者です! at 2016/04/18 10:20:19
└ 山口 浩 at 2016/04/20 0:03:53
■ Re:福井市の1980年代PC事情
└ バビロン王 at 2016/02/02 21:56:24
└ 山口浩 at 2016/02/04 23:16:39
└ バビロン王 at 2016/02/07 17:59:21
└ バビロン王 at 2016/02/02 21:56:24
└ 山口浩 at 2016/02/04 23:16:39
└ バビロン王 at 2016/02/07 17:59:21
■ Re:MSXのライバルたち その7。 MZ-1500
└ バビロン王 at 2013/02/22 10:08:17
└ 山口 浩 at 2013/02/23 1:38:07
└ へ? at 2016/01/30 15:08:54
└ 山口 浩 at 2016/01/30 22:13:11
└ バビロン王 at 2013/02/22 10:08:17
└ 山口 浩 at 2013/02/23 1:38:07
└ へ? at 2016/01/30 15:08:54
└ 山口 浩 at 2016/01/30 22:13:11
■ Re:疲れる
└ あばれるくん at 2015/11/02 1:12:58
└ あばれるくん at 2015/11/02 1:13:25
└ 山口 浩 at 2015/11/02 22:16:01
└ あばれるくん at 2015/11/02 1:12:58
└ あばれるくん at 2015/11/02 1:13:25
└ 山口 浩 at 2015/11/02 22:16:01
2017/09/25
村瀬信一著「帝国議会」読了
[書評]
講談社選書メチエの村瀬信一著「帝国議会」読了。
坂野潤二さんの先行研究なども参考にして、戦前の議会がどのような経緯を辿って二次大戦まで帰結したのか、どの程度国政に影響を与えたのか、著者の研究結果を踏まえた解説の書。
結論としては、そんなに衆議院は弱くない、元老や枢密院、天皇に至るまで、衆議院の決定を十分に重んじていたこと、貴族院は衆議院と対等とは言いながら、衆議院の決定をほとんど邪魔したことがなかった事(少しはある)、また、貴族院自体が、今の参議院とは違って議員立法等の活動に対してはかなり抑制的で、衆議院の副次的役割であることを自認していた部分もあること、などが書かれている。
大日本帝国憲法という、欽定憲法の枠組みの中では、精一杯民主的な運用がなされ、また、衆議院の決定を重んじる風潮は藩閥や軍部の中にもしっかり根付いており、決して政府の一方的な言いなりになるような弱い議会ではなかった事、などが詳細に書かれる。
にも関わらず、第二次大戦を防げなかった事については、法制度の枠組みによって歯止めが効かなかったというよりも、政党政治が党利党略に堕して国民の意見を十分に反映しえず、国民の失望を買ってしまったこと、しばしば経済的な失策によって国民を苦境に追い込んでしまったことにより、政党政治への失望が軍部台頭の素養を作ってしまったことなどが挙げられている。
この他、十分に議論、討論を尽くす、というディベートの技術が、急速な民主化によって追いつかず、国民の視線を気にしたパフォーマンスに終始して、法案を磨き上げる技術が極めて未熟だったという要因も指摘される。
ともあれ、日本の民主主義というのは、戦前の国会開設から永らく続けられてきた元老や議員の不断の努力による部分が大きく、決して、アメリカに戦後にポッと与えられて急造で出来上がったものではないことが良く分かる。
であるからして、戦後の議会運営もスムーズに移行されたものであり、フセイン政権を倒した後で、同じようなメソッドでイラクを民主化できると考えていたアメリカという国は、本当に、無知とは言わないが認識がイビツという他はないと思う。
坂野潤二さんの先行研究なども参考にして、戦前の議会がどのような経緯を辿って二次大戦まで帰結したのか、どの程度国政に影響を与えたのか、著者の研究結果を踏まえた解説の書。
結論としては、そんなに衆議院は弱くない、元老や枢密院、天皇に至るまで、衆議院の決定を十分に重んじていたこと、貴族院は衆議院と対等とは言いながら、衆議院の決定をほとんど邪魔したことがなかった事(少しはある)、また、貴族院自体が、今の参議院とは違って議員立法等の活動に対してはかなり抑制的で、衆議院の副次的役割であることを自認していた部分もあること、などが書かれている。
大日本帝国憲法という、欽定憲法の枠組みの中では、精一杯民主的な運用がなされ、また、衆議院の決定を重んじる風潮は藩閥や軍部の中にもしっかり根付いており、決して政府の一方的な言いなりになるような弱い議会ではなかった事、などが詳細に書かれる。
にも関わらず、第二次大戦を防げなかった事については、法制度の枠組みによって歯止めが効かなかったというよりも、政党政治が党利党略に堕して国民の意見を十分に反映しえず、国民の失望を買ってしまったこと、しばしば経済的な失策によって国民を苦境に追い込んでしまったことにより、政党政治への失望が軍部台頭の素養を作ってしまったことなどが挙げられている。
この他、十分に議論、討論を尽くす、というディベートの技術が、急速な民主化によって追いつかず、国民の視線を気にしたパフォーマンスに終始して、法案を磨き上げる技術が極めて未熟だったという要因も指摘される。
ともあれ、日本の民主主義というのは、戦前の国会開設から永らく続けられてきた元老や議員の不断の努力による部分が大きく、決して、アメリカに戦後にポッと与えられて急造で出来上がったものではないことが良く分かる。
であるからして、戦後の議会運営もスムーズに移行されたものであり、フセイン政権を倒した後で、同じようなメソッドでイラクを民主化できると考えていたアメリカという国は、本当に、無知とは言わないが認識がイビツという他はないと思う。
posted at 2017/09/25 0:38:25
lastupdate at 2017/09/25 0:46:48
【修正】
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