» 格差問題 | date : 2008/06/18 | |
1988〜89年に起きた幼女連続殺人事件の宮崎勤死刑囚が死刑を執行されたようで。 今は死刑の是非や事件の問題等は論評しないが、当時殺された女の子達が もし生きていれば26〜27歳と、当時の宮崎勤とほぼ同じ年齢に達しているであろう事を 考えると、ひたすら感慨深いものがある。 当時、この犯罪のマスコミ論評において、ニュースキャスターの木村太郎氏が、 犯人のアダルトビデオ、アニメ趣味などを激しく攻撃していたが、 類似の別件犯罪で犯人のパソコン通信等の内向的趣味が槍玉に挙げられた時は、 パソコンを愛好している木村太郎氏は、パソコン趣味への強力な擁護論陣を 張っていたという事実を思い出す。 要するに、人間というのは、何か人為的な重大事件が起こると、自分が普段から 嫌っている人や物に責任をなすりつけようとする傾向があり、自分の好きなものが 攻撃されると、それを防衛しようとする傾向があるわけだ。 自分もそれにならって、最近起きた例の事件について多少考察してみようと思うのだが、 自分が嫌いつつターゲットにしようとしているのは、最近特に顕著になっている 格差社会と言われるものである。 現在、大量の株やキャッシュを保有する資産家、その資本でもって会社を動かす経営者、 さらにその下で働く正社員、そしてあちこちで便利使われしている派遣社員。 またこれとは別に、アルバイトで食いつなぐフリーター、親の金を当てにして生きる ニート等があり、これらの人種がヒエラルキーをなし、戦後の日本社会では今まで 例のなかった格差社会を具現化しようとしている。 実際は戦後の日本でも金持ちは金持ちとして明確に存在し、一億層中流などは 幻想に過ぎなかったのだが、昔の金持ちは粋や侘び寂びを重んじる人も多かったので、 ことさら自分が金を持っていることをアピールしなかった。 最近の金持ちがより成金化して、下品になっているがゆえに金持ち趣味が 鼻につくようになってきているという事も当然あるのだが、今までの日本の政策で、 重視されてきた所得の再配分が、「能力に応じて金の取れる社会」のスローガンを 口実に、金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏人に、という政策に転換していって いることは否めない。 ジニ係数や所得の中央値、さらには各所得層の人数の増減を見れば、この傾向は 一目瞭然である。 こういった証左から、日本は格差社会化していっている、という話をすると、 世界的な数値を持ち出してきて、「日本は世界でも格差の少ない社会だ」 という論旨を展開する人間がいるかも知れないが、現行の日本が格差の少ない 社会だとするならば、それを維持するべく努力するのが当たり前で、 「今は格差が少ないから、もっと格差を広げても構わない」という話になるわけがない。 それに、格差の嫉妬というのは、最初から大幅に生活環境が開いている場合は さほど煽られることがなく、今までそれほど違わない生活をしていた人間が、 自分達よりどんどん豊かになっていくことによって産まれる感情だから、今の日本が 世界と比べてどうこうと言うのはあまり意味がない。 格差を広げるとどういう悪い事が起こるかというと、下層に固定された身分の人間が モラルハザードを起こし、犯罪や裏社会に流れ、世情不安を煽るという問題がある。 結果、治安が低下し、今までのようなより安全な社会というのは享受できなくなる。 身分固定の閉塞感が、無差別に発露されるとどうなるか、その一例を見たのが 今回の事件ではないだろうか。 金持ちはあんなところに近寄らない、子供はハイヤーで送迎し、自分達は治安のよい 高級住宅地や一等地のマンションに住む。そう思ってる人もいるかもしれないが、 そのハイヤーの運転手が、一生低賃金のままうだつが上がらないと絶望していれば、 子供を誘拐して身代金をせしめようと考えるかもしれない。 自宅で雇っているベビーシッターや家政婦が、強盗殺人の片割れとなるかも知れない。 散髪や髭剃りをやってくれる専属の床屋が、手に持ってる刃物でよからぬことを 考えるかもしれない。 金持ちが金持ちのことしか考えない社会というのは、金持ちにとってもよからぬ社会を もたらすという事を理解しないとマズイだろう。 |
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posted at 2008/06/18 2:09:21
lastupdate at 2008/06/18 3:01:42 »category : 日記 【修正】 |
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