大した事のない特集、第四弾!!(00.02)
 

スクウェアは異端である!!


  今、テレビゲーム業界で最強のソフト会社といえば、スクウェアだろう。
  ソフトの開発能力という点から言えば任天堂やセガも非常に高度な技術を有している。この二社は一方でプラットフォームのベンダーでもあるのだが、支配的に強力なソフト会社とは言い難い。
(昔の任天堂はそうだったんだけどねぇ・・・・。)

  他のソフト会社(たとえばコナミやナムコ)はどうだろう。それらの会社にも、大ヒットとなったゲームは何本も存在するが、一つのゲームハードの死命を制する事ができる程のタイトルを保有してはいない。
  となれば、売り上げ、影響力を含めて最強といえるソフト会社はやはりスクウェアという事になるだろう。ファイナルファンタジー(以下FF)という最強の武器を有するスクウェアは、ゲームソフト会社の中でも王者と言ってよい地位を占めている。

  このスクウェアに対しては、ゲーム好きの人間ほど批判的な態度を見せる事が多い。これは同社の主力タイトルであるFFの評価にしても同様である。これは何故だろうか。
  まあ、ぶっちゃけた話が、FFを筆頭とするスクウェアのソフトが面白くないから、というのが正直な感想なのだろうが、その一方でライトユーザーと呼ばれる大多数の人間からは、FF等は圧倒的な支持で迎えられ、毎回記録的なヒットを飛ばしている。
  まるでハリウッド映画に対する映画通と一般人の態度の違いのようで非常に興味深いものがあるが、この場合はその説明だけでは済まないような気がする。
 

  古くからのゲーム通ならご存知だろうが、スクウェアは、ナムコやコナミと違って、家庭用ゲーム機に参入するのは遅かったソフト会社である。
  元々はパソコンに対するソフトメーカーだったのだ。PC8801、X1、FM7等、中世代にあたるパソコン達に対して数多くの秀作ゲームを発表していた。
  その時代のスクウェアに対するイメージは、非常に高い技術とこだわりを持った個性派集団、といったものだったと思う。そして、彼らが最も得意としていたのは、高速アニメーション技術だった。

  その頃のパソコンソフトといえば、まだ、線を引き、その中に色を塗って、という過程がじっくり観察できるほど描画のスピードが遅かった。一つの画面を表示するのに1分以上かかるものも珍しくなかった時代だ。
  気鋭のソフトハウス達は、マシン語やアセンブラといった低級言語を縦横に駆使してペイントルーチンを改良し続け、ようやく瞬間的な描画を可能とし始めた。自分達ユーザーは、その技術に目を見張ったものだ。
  そういう時に、信じられない技術を引っさげて登場したのがスクウェアだ。瞬間描画という技術をとっくに通り越し、パソコン上でアニメーションを再現して見せたのだ。
「アルファ」というアドベンチャーゲームのオープニングでは、主人公の女の子クリスが銃を撃ち放ってパソコンゲームファンの度肝を抜いた。
「WILL」というアドベンチャーゲームでは、アイシャというアンドロイドの女の子が目覚め、瞬きをするというパソコンゲーム史上不朽の名シーンを演出した。
「ブラスティ」というRPGに至っては、日本サンライズにデザインをさせたロボットが、戦闘に入るたびに完全フルアニメーションをやってのけた。
「パソコン上でセル画のような絵が動く!!」というのは、自分達の世代では衝撃的だった。

  無論、他のソフト会社も手を拱いていた訳ではない。スクウェアの繰り出すアニメーション技術に対して果敢に挑み、それを上回ったものすらある。
  その最右翼がエニックスだった。エニックスは、スクウェアのような技術屋集団というよりは、プロデューサー的立場で才気あるプログラマー達にソフト開発を依頼していた会社だったが、発売されるゲームは、仮想敵はスクウェアか、と思われるようなものも多かった。
  当時は完全にビジネスマシンだったPC9801を使用してフルアニメーションを再現した「セイバー」(ヒロインの流す涙が頬を伝って手の甲に落ちるシーンは伝説的)。
  原作の残虐さを戦闘シーンで再現した「北斗の拳」。ブラスティと同時期に発売されたロボット物のアドベンチャーゲーム「ライーザ」等。

  しかし、エニックスは必ずしもアニメーションを再現する事にばかり力を入れていた訳ではない。
  可愛いキャラを使った秀逸なアクションゲーム「ドアドア」や、当時劇画「ゴルゴ13」のシナリオスタッフの一人だった堀井雄二氏を脚本に迎えた「ポートピア連続殺人事件」「軽井沢誘拐案内」といった本格推理アドベンチャー。
  プレイアビリティやシナリオを重視した作品もまた、エニックスの本道だった。これらパソコン時代に培ったノウハウは、数年後「ドラゴンクエスト」として結集し、ファミリーコンピューター上で大輪の花を咲かせる事になる。

  一方のスクウェアはどうか。T&Eソフトや日本ファルコムといったパソコンソフト上のライバル会社が、家庭用ゲーム機のソフト会社として今一つ脱皮出来なかったのを尻目に、スクウェアもエニックスという先達を追って家庭用ゲーム機オンリーの道を歩み始める。

  エニックスが、優秀なプログラマやシナリオライターを使って完成度の高いゲームを仕上げたのに対し、スクウェアのこだわりはやはりアニメーションだった。
  ディスクシステムで発売されたアドベンチャー「水晶の龍(ドラゴン)」でも、動画を多用して一部のファンからは「さすがスクウェア」との賞賛を受けた。しかし、所詮はマニア受けである。
「ドラゴンクエスト2」「同3」を発売して圧倒的に市場を支配するエニックスに比べれば、スクウェアなど弱小メーカーもいい所だった。

  しかし、この頃のスクウェアはまだベンチャー企業である。「良質のゲームを作ればドラクエにも追いつけるはずだ。」と言わんばかり。向こうが鳥山明なら、もっと上の年齢層を狙って原画には天野喜考を起用。
  渾身の力を込めて発売されたのが「ファイナルファンタジー1」だった。1987年12月の事である。
  この作品は一部のファンから熱狂的支持を受け、まずまずのヒットをしたがドラクエには遠く及ばなかった。しかしこれで手応えを感じたスクウェアはあきらめず、「FF2」(このころから登場人物がよく死ぬようになる)「FF3」(ジョブチェンジ!)と間断なく攻め続け、大作RPGの一つと認知を受けるようになってくる。

  スーパーファミコンに代替わりした直後、開発のもたつくドラクエの機先を制し、「FF4」を発表。大ヒット。終にライバルに比肩しうる地位にまで辿り着いた。絵に描いたようなサクセスストーリーだ。
  その後もスクウェアは手を緩めず、「FF5」「FF6」とスーパーファミコン上で発表。今度はドラクエを抜き去り、圧倒的強者になった。

  「ドラクエ」と「FF」の最大の違いは、グラフィックに対するこだわりだろうか。
  FFがスーパーファミコンに入ってドラクエを抜き去ったのも、その偏執的に書き込まれたグラフィックの美しさをマシンが再現出来るようになったからだろう。
  対する「ドラクエ5」など、スーファミで発売したにもかかわらず、過去のイメージとの統一にこだわってファミコンに近いグラフィックの質にわざわざ落としていた。
  発想がまるで逆である。そして、人は見栄えの良い方のゲームを選んだ。
  パソコンソフト屋時代の「美しいアニメーションを!!」という想いは「美しいグラフィックを!!」と形を変えて生き延び、スクウェアの精神的支柱になっていたのだろう。
  兎に角、画面表示に関するスクウェアのこだわりは、昔から一貫して凄まじいものがあった。

  スーファミ一の看板ソフト屋となったスクウェアではあるが、その頃から任天堂と齟齬をきたすようになる。画面表示にこだわるスクウェアと、ゲーム性にこだわる任天堂。
「スーパーマリオRPG」の共同制作で任天堂とスクウェアは方針が衝突したとも言われているが、スクウェアは任天堂と決別し、強力なムービー再生機能とポリゴン能力を持つプレイステーションへの参入を決定した。もちろん、SCEの強い希望があった事は言うまでもないが。
 

  この頃、スクウェアは株式市場に上場した。
  上場した株価を安定させるために、間断なくソフトを発売する必要性に迫られた上、プレイステーションに対するソフト開発が負担になったスクウェアは、空前の人材引き抜きを行なうに至った。セガからはVFのスタッフが、ナムコからは鉄拳のスタッフが、オウガバトルチームは丸ごと引き抜かれ、この時スクウェアに入ったクリエイターの数は100人とも言われている。ゲーム業界のクリエイターの数は約1万人前後、その1%を一気にかき集めたのだから、業界は混乱した。
  まあ、今更、事の是非を問うても仕方がない。スクウェア入りしたクリエイター達が、満足の行く職場環境でやり甲斐のある仕事に従事していればそれでいい事だ。

  結果、生まれてきたのが「FF7」「FF8」である。グラフィック、ムービー、戦闘効果は正しく凄まじいの一言。しかし、システム、シナリオ面に関しては消化不良との批判も強い。

  しかし、ここまでスクウェアの歴史を追っていけば、自ずと結論は出ているはず。結局、スクウェアというメーカーはグラフィックやアニメーションの演出が凄ければそれでいいというメーカなのだ。
  システムやシナリオなどは、グラフィックやアニメーションを際立たせるための刺し身のツマでしかない。
  ファミコン、スーファミ時代は「ドラクエに追いつけ追い越せ」という特殊な事情があったため、たまたま「刺し身のツマ」であるシステムやシナリオがべらぼうに美味かっただけの話なのだ。
  ライバル不在の現在、晴れてスクウェアは自らの本道に立ち返って、グラフィックとアニメーションの凄さだけを純粋に追求出来るわけである。
  それらでプレイヤーの耳目を驚かす事ができれば、満足、満足という訳だ。
  だから、FFなどにシナリオやシステムの練り込みを要求するのはお門違いである。
それが20年来不変のスクウェアのスタンスであり、スクウェアのこだわりなのだ。
ここまで首尾一貫しているといっそ気持ちがいいくらいだ。
 
 

  しかし、それがゲーム作りの王道かと言われれば、断じて否、といわざるを得ない。スクウェアのやり方は異端であり、ある意味邪道だ。
  無論、スクウェアのようなゲーム作りの方法もゲーム業界には必要である。しかし、それは業界のトップランナーとして君臨すべき存在ではない。正直言ってその器ではない。
  ゲーム製作の手本となるべき王道は、任天堂やエニックスが示しているものであると思われる。本来二番手三番手に留まるべきスクウェアがトップに立っている現状は、先記の二社の油断と傲慢から招かれたものだ。
  ゲームファンがスクウェアに対して寄せる批判というのは、実は、場違いな王座に留まる異端者に対しての苛立ちと腹立ちから来ているのではなかろうか。
 

ホームへ戻る

過去の特集リストへ行く