キリスト教倫理と日常
  ―――問わないことの意味―――
 次のスケッチがなんとなく懐かしいと、感じられることがないだろうか。実は、実物がないか、デジカメを持って、ずいぶん歩き回ったのですが、なかったのでスケッチにしておきます。

 日本文化の中で育った人であれば、この赤いトリイが何を意味しているかすぐにわかってもらえると思います、
   この赤いマークは、シンボルとして、清いものなのです。清いものをこんなところに書くことには、誰も異議をはさみません。殆どの場合そうです。尊いものならばよいということで、ここに、大日如来像などを書いたら。・・・警告を受ける人よりも、描いた人のほうが疑われるでしょう。郵便ポストのシグナルでもありません。やはり一種の信仰心を介して、警告をしているのです。
 先に、「鬼の話にはずいぶん、重みのある、如何とも自分ではしがたいようなようなものを感じた!」てなことを言ったら、「それは、宗教の問題か? ただの、私的な生い立ちだろう」という指摘を受けたので。もう一度、宗教の倫理から考えてみることにした。単なる、懐かしい、おとぎ話や、伝説、ということになればそれはそれで、またよし・・・。ということにしたい。

 宗教・神学
 宗教 宗教を定義するのははなはだ困難だが、なんらかの意味で、日常一般の人間や自然の水準を超えた存在やそのあらわ
れが認められ、そしてそのような存在とのかかわりによって、思考・意志・生活をふくむ人間存在が成り立つと主張されるときに、宗教があらわれてくるといえる。宗教には、超越的存在のあらわれに接した教祖や、教祖の認識を介して竜越者とのかかわりにはいる信徒・教団、認識の反省としての教学、超越者とのかかわりの確保・確認としての祭儀などがしぼしばみられる。超越者は人格的存在とされる場合(有神論)、非人格的で世界に内在するとされる場合(汎神論)などがあり、ま
た超越者の認識が人間自然の能力によってなされるとする場合(目然宗教)、超越者の倒からの啓示によるとされる場合(啓示宗教)がある。また宗教のおよぶ範囲により、神道のような民族宗教、キリスト教・仏教・イスラム教のように民族の枠を超えた普遍性をもつ世界宗教がある。宗家的自覚の深さもさまざまで、世界内の相対的諸存在に超越者を感ずるものから、超越を全存在の究極者にみるものにまでわたっている。(以上、八木誠一、『現代教養百科事典』6、p、486)
 ・・・・・以下、アニミズム、フェティシズム、シャーマニズム、カトリシズム、・・・、と、多くの項目に解説が成されている。

 一応、宗教を、定義することを、試みると、おおむねこのように記さざるを得ないだろう。混乱することを恐れず、進めるとすると、一体うえのトリイは、宗教や、信仰(理解)といったアプローチが適当なのだろうか?それとも、西洋的な「民俗学」に、出発点を求めて、理解にまで到達しようと努力したほうが適当なのだろうか?

 そして、「キリスト教倫理」である。もしくは、信仰(理解)でもある。また、おのずと次のような、疑問にも回答しなければならない。
 はたして、信仰者に、宗教を論じる能力があるだろうか?
ということである。
 浄土真宗に代表される、民衆仏教ではこのような理解をするが、キリスト教、特に、カトリックや、プロテスタント信仰(運動)にあっては、このような理解に立つ。と言ったとしても、神学を超えるものになりえるだろうか?ということである。
 

   説教「Mar. 3.12 『主のみ前で』」堺キリスト教会

 宗教の定義として、「キリスト教の信仰理解」をもって対応することは、それほど難しいことではない.
けれども、我々が今問題にしている日本の信仰倫理は、キリスト教の信仰を知らない。けれども信仰に関わる倫理や道徳なのである.
「情相不二」(魂と肉体は、分けられるようなものではない)・・・おうぞう菩薩―――>弥勒菩薩
と言う理解は、平安末期以降なくなってしまったわけではない。
 確かに、人の中心にある仏性というものが、訓練によって、表面にある世俗性を脱ぎ捨て、あるいは表面が透明化し、その人全体を覆うまでに成長すると言う理解は、浄土真宗においても、「生きて仏になる」と言う理解は完全になくなってしまったわけではない。むしろ、仏に移行すると言う理解は、仏に対するこの世の状態からそう簡単には、解決されない。と言う形で仏への理解を、強めたと言える。
 久保田周著『仏教とキリスト教』
   

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