ルターの教会観・教界

 アウブスブルグ信仰告白は、1530年、帝国議会の、福音的諸都市の振興を明らかにするために提出されたもので、改革期の一連の告白文書の最初のもので、メランヒトンがその中心的役割を果たした。7,8条は「教会に関する理解」である。[1]

 現在「ルーテル(派)教会」と呼ばれている教会は「確立」されており、全世界に、熱心に宣教されてきた。

 ルターの、「聖なる公同[2]の教会・・・」(使徒信条)に関する理解から見てゆくことにする。彼の理解は、現在、一部で思い込まれているような、「信条主義」の教会ではなく、使徒信条が告白するごとく、きわめてエキュメニカルなものであった。もし教理が完全なものであったら、われわれは、教会をその上に作ることができるであろう。われわれに可能なことは、ひたすらこのことを望むことである、と言うものである[3]

 ルター自身、ローマの教会を、破門されるに至って、そう理解せざるを得なかったのである。教界と、諸教会の区別は、はっきりとされ、彼にとって破門されたのは、一ローマ教会のメンバーから除籍されたのあった。ただ、真理により近いと確信できることを犠牲にして、野合することが、今日の教会どこでも主張されているように大切なことだったのである。

 まず教会の存続性の宣言がなされ。霊的に召し集められた「羊飼いの声に聞き従う羊の群れ」であることが述べられる。キリストと信徒とは、ひとつの菓子のようなものである。といのがルターのたとえに見られる[4]

 「教会は、聖徒の集まりであって、その中で福音が純粋に教えられ、聖礼典が正しく執行される。」と教会の定義が成されており、ルター派教会が、分裂主義者ではないことを明らかにしている。「ルター的」という言葉を拒絶しているし、「まことにあなたは、身命をかけて、私はルター派であるとか、あるいは、教皇派であるとか言ってはならない。なぜなら、そのいずれもあなたのために死んではいないし、またあなたの主人ではない」としるしている。教会はひとつであり、教会たらしめていることが、聖徒の集まりであること、御言葉が純粋に説教され、聖礼典が正しく執行されることを述べている。説教について、マタイ23章の意味に触れ、「説教者は、耳の中に言葉を持ってゆく、しかしキリストは心の中にそれを持って行きたもう」(『二種陪餐について』、1522)といった言葉がよく示している。また、サクラメントに関しては、「それゆえに、キリスト教界においては、・私たちがこの地上に生きるかぎり、日ごとにみことばとしるしとによって、.ひたすら罪のゆるしが与えられて、私たちの良心が慰められ、励まされるようにと、万事が整えられているのである。こうして、神が私たちをゆるしたもうとともに、私たちも互いにゆるし合い、忍び合い、助け合うという、ひとえに罪のゆるしのみが存在するキリスト教界に私たちがいるかぎり、たとい私たちに罪があっても、その罪が私たちをそこなわないように聖霊がとりなしてくださるのである」(大教理問答書)[5]、と言う告白がここにも生かされることになった。

 次に、いまだ到達しえていない、「旅する教会」の神学に関して、「福音の教理」への同意が求められることを告白している。また彼は、次のように自分の考えを述べている。「食事はごちそう次第、信仰は教理次第である。もし教理が正しければ、正しい信仰がある。もしそれが誤りであれば、信仰も誤った、死んだ信仰である」。園教理はひとつである必要はなく、正しいものである必要があるのである。「世界もこれをおさめることはできない」(「ヨハネ福音書」)のはただしいことである。

 「人間的な伝承、あるいは人の定めた儀

式や祭式は、どこにおいても同じでなければならないという必要はない」と告白の七条はすすむが、ここも、ローマとは、圧倒的に異なる境界的告白であり、この人的なものを、ルターは否定していない。その視点は、(福音自体ではないけれども)福音にかかわる大切なもの、および福音自体を重んじると言うものである。

 八条においては、「この世の教会の偽善者」、「悪しき教職者と、異端(得にドナトゥス派について)」について述べられている。悪しき教職者を識別できて、よき教職者による聖礼典の執行にはより、効力があると、人間が判断できるのであれば、ルター自身に与えられた洗礼は価値のないものになってしまうことになるし、み言葉にもこのことはない。そして、保証を与えるものは、キリストによって成されたことが執行されていると言うことである。今日日本の教会のわれわれの中に、どの先生から洗礼を授けられた、とか、どの先生の教会に集った、といったようなことを、信仰の基礎においている場合がまれにあるようだが、ずいぶん異なる状況である。それらはただの事実に過ぎないのである。また、「バプテスト派」の一部には、大人の告白は信用できる(「信じて義とされ告白して救われる」)、と理解し、子供の洗礼は信用できない、とする、「教会の子供」と理解するのではなく、不確実でしかありえない「人の確信と決意」に、根拠を求めようとするりかいがあるように見えることとも、ずいぶん異なることである。

 先にも述べたように、み言葉の宣教者か、ミサの祭司かという、今日、祭司と牧師は、かなり違って受け取られているのと、同じ内容を告白しているのである。

 異端ドナツゥス派についてはこうである。背教的行為と思われたことから立ち直った、迫害下の司教フェーリクスは(迫害者ディオクレディアヌスに聖書写本を渡した)、サクラメントを執行したが、この司教がカエキリアヌスを任職したが、対立派はマヨりヌスを選んだ。この北アフリカで、マヨリヌスの後継者となったのがドナトゥスであった、後には、アウグスチヌスも論争をすることとなった[6]。アウブスブルグ告白はこのことを再確認しているのである。「二つの教会」、「神の統治とこの世の統治」と呼ばれている、理解の基礎的教会観を宣言しているのである。この八条からもいくつかのことが読み取れるがまず、異端についてみてみると、ルターを異端とみなしたのは、一ローマ教会であるのに対して、告白は明らかに「先に宣言したキリスト教界」を意味している。



[1]『一致信条書』、pp.27-29

  その第七条、八条は次のようなものである。

  〔第七条 教会について〕

 われわれの諸教会はまた、こう教える。唯一の聖なる教会は、永遠に存続する。教会は、聖徒の集まりで

あって、その中で福音が純粋に教えられ、聖礼典が正しく執行される。そして、教会の真の一致のためには、

福音の教理と聖礼典の執行について同意すれば、それで十分である。人間的な伝承、あるいは人の定めた儀

式や祭式は、どこにおいても同じでなければならないという必要はない。それはパウロが「ひとつの信

仰、ひとつのパブテスマ、ひとりの神、またすべての者の父」云々 〔エペソ四・五、六〕と言っているとおりである。

  〔第八条 教会とはなにか〕

 教会は、本来聖徒と真の信仰者の集まりであるとはいえ、「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている」 〔マタイ二三・二〕などとキリストのみことばにあるように、やはりこの世では多くの偽善者や悪人がこれにまじつているから、悪人によって執行される聖礼典を用いても有効である。聖礼典もみことばも、キリストの設定であり委託であるから、たとえそれが悪人によって与えられても有効なのである。

 われわれの諸教会は、教会において悪人の教職を用いることが有効であることを否定し、悪人の教職は無効で、何の力もないと考えたドナトゥス派およびその同類を異端と宣告する。   (ラテン本文よりの訳)

[2]日本では一時期、「キリストの」とされ、ヴァチカンの、カトリック教会ではないことが強調された。

[3]ピロス、『ルター神学』、p.255

 もし教会の教理を完全に、また決定的に述べることが可能であるならば、おそらく「完全な」教会をその基礎の上に建てることができるだろう。しかし、教理も教会もこのような方法で現実化することはできない。すなわち、正しい教会は人間によってではなくて、ただ聖霊によってのみつくられる。教会は確かに存在しているし、それはわれわれの前にある。しかしその完全な姿は、真剣に望むことができるだけである。したがって、教会はその核心と存在についていえば、終末論的である。それだから、教会は見えないものであると同時に見えるものなのである0それは聖書の上に基挺づけられ、聖書が正しく教えられ、聖礼典が正しく執行されるところには、どこにでも存在する。

 ここにあげたすべての特徴は、教会がその核心と存在によれば、エキュメニカルであるということを、必然的に結論づける。教会は、ルターによるならば、とどのつまりキリスト教界なのである。

[4]この世の現実の中では、教会もまた罪びとの集まりでしかないが、真の教会がその中に隠されている。(『ルターと宗教改革辞典』,p.293
[5]前掲書、p.248より
[6]ウォーカー、『キリスト教史』
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