2006年
10月29日

≪今朝の聖書から≫
 “山上の説教”の同じ中身は、聖書の随所にあります。今日の箇所、ルカ12:13〜31にも記されています。わたしたちは、イエス様が完全の神の国の人であったのに対し、この世(俗世間)に生きています。ある人が政治的な権力の座について、大衆を支配しようとしたとします。私たちと私たちの子供の教育のこと、老後のこと、医療のこと、この三つのことに関する制度を支配することに注意をすると思います。私たちもそうなのです。貯金をしたり、生命保険、火災保険、自動車保険に入ることまで含めて私たちは備えをします。これは正しいことなのですが、俗世間のことです。神様からいただいた、ビジョン、挑戦、チャレンジは生まれません。私たちの世界が神の支配にあることを知っているのはクリスチャンだけでしょう。また神様の世界は、モリヤの山に於いて(創世記22章)、イザヤの預言に於いて(イザヤ11章)、弟子達に示された、主の山上の変容の姿に於いて(マタイ17章)、黙示録に於ける救いの姿に於いて、そして洗礼と聖餐に於いて、私たちの日常と交差していることを忘れてはいけないのです。12:20を見ましょう。愚かなものの魂は今宵のうちにもとられる,とあります。“命(肉体)”どころか“魂”が取り去られてしまい、何の希望もない滅びの世界に投げ込まれるというのです。私たちは、たとい、最良の医療を求めて何をしたからといって、最後には、主に従わねばならぬことを知るときがやってくるのです。私たちは神の摂理に従って、最も有意義に生かされている事を知るのが、“神の前に富んでいる”姿なのです。18節に出てくる金持ちのような姿勢からは、神様からチャレンジを、信仰者として頂くことはありません。かれの姿は毎日をつくろい、なんとかその日を過ごそうという、守りの姿は持っても、神様の前に大きな可能性を頂き、天に宝を蓄える姿は生まれないのではないでしょうか。私たちが今、神と共にあり、終末の世界に過ごしていることを忘れないようにしましょう。金持ちの姿と、イエス様の姿のなんと異な
っていることか、見回してみましょう。クリスチャンは価値ある命を生きることが出来るのです。

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