2006年
10月22日

≪今朝の聖書から≫
 “山上の説教”と呼ばれているところからです。この中身をどのように理解したら良いのでしょうか、考えましょう。倫理的な美しさを感じ、“禁欲的な生き方の美しさ”だと理解する、クリスチャンでない人もいました。しかしイエス様は“律法学者達のようにではなく権威あるもの”としてこの箇所を、弟子達だけにではなく、今に至る全てのクリスチャンに語っておられるのです。次の文は、J.ウェスリの説教からです。何にも増してこの説教(山上の説教)で、神の御子は驚くべき愛を持って、人類への御父のご意思を掲示しておられます。主は私たちを再び、火によって燃える黒雲、暗闇、嵐(ヘブル12:18)へ連れて行こうとはしておられません。かつて“天に雷鳴を響かせ”、“いと高き方が雷鳴と燭と火の炭を与えられた(詩篇18:14)”時のように、語ってはおられません。主は今私たちに、“かすかな細い声”をもって(T列19:12)、“心の貧しい者は祝福されています(幸です)”と告げられます。幸いなのは、悲しむ者・柔和な者・義に飢え渇いている者・哀れみ深い者・あわれみ深い者・心の清い者です。彼らは究極に於いても、その途上に於いても幸いです。この地の生活に於いても、永遠の生活に於いても幸いです。主は、あたかも次のように語っておられます。“生きることを切望し、良き日を見たいと願っている人は誰か。見よ。わたしは、あなたの魂が切望しているものを示そう。あなたが長い間得られなかった道を見よ。それは、心地よい道、穏やかな、喜ばしい平和への道。下の天および上の天への道なのだ”と。・・・。この説教から何が聞こえるでしょうか。私たちは一生懸命に、キリストという道を歩まなければなりません。理由なしに、“私には出来ない”と言って諦めてはいけません。豊かになったと思って、満足し、誇りに思ってはいけません。もし“私は信仰深いし、そのような環境でなくて良かった”と思ったら、“心が貧しい姿”から、離れつつあることに注意しましょう。このような感謝は“神と人から身を守りたい”という思いへの出発点です。“心の貧しい人”というのは、自分と神との関係を知りたいと願っている人、よく取りなす人です。

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