2006年
10月15日

≪今朝の聖書から≫

先週は、“キリストの体である教会”への奉仕がどんなに、主のみ心に叶うものであるかについて聖書から学びました。奉仕という“労苦”が、まずあるのではなく、完全に救われた恵に支えられて、奉仕という教会に於ける体験を私たちはしていることを学びました。修道士達は祈りの生活という形で奉仕しますし、芸術家達は、その活動を奉仕として理解しています。建築家は、神様へのささげものとして教会建築を行ないました。“罪の赦しと贖い”そして“奉仕”につづいて“イエス様のとりなし”について今日は聖書を読みたいと思います。執り成しは、その日常的な行ないに於いても、霊的な働きに於いても、兄弟姉妹との関係を強調している言葉です。教会という言葉自体、“聖徒の交わり”を意味する言葉から来ていますし、日本語になったときにも“会”という集りを意味する言葉が使われました。勿論イエス様が一番、執り成しの業をされました。今も私たちは、主イエスの執り成しのもとに毎日を過ごしているのです。誰でも、良いことをしてくれる人に近づきたいものです。皆お互いに、執り成し合いの関係の中にいるわけです。けれども人の心というものは、実に曖昧なもので、中途半端な態度を“好ましい”と考えるときさえあるのです。初めはイエス様の教えを聞いていた人々も、いざとなると、“もうイエス様の所には留まらない”と言ってしまう、罪の姿が記録されています(14:49)。誰でも“裏切られた”という言葉がふさわしい経験を、したりさせたりするのです。14:50にも、“これ以上一緒にいたのでは、たまったものじゃない”というありのままの姿があります。けれどもユダのように、自ら進んでイエス様を裏切るのではなく、きっと、思うようには行動出来ない姿をありのままに示しているのでしょう。51〜52節に、それでもイエス様に、ついて行こうとした若者の記録があります。推論でしかありませんが、この若者がこの聖書の著者だったかもしれません。ペテロでさえ逃げてしまった中で、彼は主のとりなしの業がどんなに偉大で、我々は主の執り成しなしには、幸福になれないことを告白しているのでしょう。

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