2006年
10月8日

≪今朝の聖書から≫ 
「コロサイ書」1:24はとても有名です。“今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。”という御言葉ですが、“キリストの苦しみのなお足りないところ”というのは一体どういうことでしょう。“イエス様の働きは十分なものではなかった”ということでしょうか。他の聖書の箇所の全てを無視して文法的にこのところを解釈し、理解してはいけないのです。「エペソ書」1:23にある“この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。”というのが正しい聖書の読み方ですし、教会もそのように教えてきました。間違った理解が現れたのも歴史の事実です。“私がキリストの出来なかったところをしよう”という“偽キリスト”が沢山現れました。今日の「コロサイ書」1:21〜29は、“教会の試練の必要性”についてです。“教会はキリストの体でありながら、人によってゆがめられている”とパウロは言っているのです。もう1つ大切なことがあります。困難や迷いについてです。“見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である”と「使徒行伝」7:10にあります。恵みなしに苦しみは価値がありません。試練のみがあったら“私たちは苦しむのみ”ということになってしまいます。逆に考えたほうが分かりやすいと思います。苦しい時に神様を求めることが出来ますし、救いがあるから“教会への奉仕”が生まれるのです。救いがあいまいなものになってしまったら、試練は救いにつながりませんし、迷いが残ります。苦難のために心がかたくなになり、神様の話しも聞けないし、神を求めることもしなくなるのです。出エジプトの時代から、そうだったことが判ります(出エジプト、6:9)。先週の箇所に“新しい契約の血”という御言葉が出てきましたが、私たちの悩みの原因となっている、健康上の事柄も、社会的な環境に関する事柄も、“神様解決を、私に何が出来ますか”と求める時に、“癒し”という解決が、与えられるのです。23節の御言葉“あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。それにこのパウロが奉仕しているのである。”は実に積極的なものなのです。苦難や嘆きも迷いも、キリストから私たちを離すものではないのです。恵の座に堅く立ちましょう。
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