2006年
10月1日

≪今朝の聖書から≫

次の週には、“贖われた民の教会という共同体”が直面しなければならない、苦難についてコロサイ書から学びます。しかし、その前に私たちは“罪が赦された者の共同体である教会”について、「マルコによる福音書」から聞き取りたいと思います。私たちの教会に試練とかかんなんといえるようなものがやってきても、何ともない為です。聖書を記した全ての弟子が“試練に耐えるように”と励ますのには理由があるのです。ただ、不幸な目にあっても、と言っているのではないのです。その理由というのが、今朝御言葉から学ぶこと“私たちはすでに贖われているから”という理由なのです。この“すでに確実なものとして人々によって経験された、罪からの赦し”があるからこそ、信仰者が経験する試練は意味あるものとなるのですし、希望もまた、贖われたことが事実であるのと同じ理由によって、“希望は失望に終ることはない(ローマ5:5)”と言えるのです。まず試練に耐えることが先にあったのではありません。先にあったものは罪なのです。“わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえも、わたしにそむいてくびすをあげた。”というのは詩篇41:9ですが、イエス様は、皆が知っている旧約聖書に書かれていることの成就、そこに記されているメシアが御自身であることを、教えられるのです。今までのように喩えではなく、奥義(秘儀)として教えられたのです。“たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。”と14:21にありますが、“生れなかった方が”とイエス様によって言われたのはこの人一人です。私たちはよく、ペテロの裏切の話を知っていますが、ペテロは決して主を離れませんでした、それだけ沢山、後悔もまた経験したのです。“イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(24節)”と、教会の担い手に、新しい契約、あなた方は贖われたことを宣言されるのですが、教会は、実にこの出来事によって、喜びの共同体であり続けるのです。

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