2006年
9月24日

≪今朝の聖書から≫
 
マルコによる福音書14:1〜9は、マタイ26:6〜13、ヨハネ12:1〜8に記録されている出来事とまちがいなく同じことをマルコの見方を通して記録している箇所です。新共同訳聖書では“ベタニヤで香油を注がれる”という小見出しがあります。その当時、ベタニヤというのは、そんなに治安も良くなく、ユダヤの人々にとってはあまり良い響きの地名ではありませんでした。裏切りと十字架の直前に、イエス様はここでも伝道され、「世界の知るささげもの」を御覧になり、“信仰を伝えなさい”と仰っているのです。14:9に“よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう”とあります。記念とするとは、忘れてはいけない大切なことという意味ですから、私達の教会にも、御言葉を通して伝えられているということが、福音もまた述べ伝えられていることの確かさを示しています。この女性のしたことをみて行きましょう。“らい病人シモンの家”と3節にあります。らい病は罪と汚れの結果とされていましたから、当然信仰深いと自称するパリサイ人や、律法学者達は近づきません。汚れを避けるためです。イエス様はこのように、何の責任もその人に無いときに、最も救いを必要としているものとして、これらの人々と関わりました。一方、“貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。”という7節にある勧めに、応えることのできない人が実に沢山いることを示しています。彼ら自身“ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」”(14:4〜5)と正しいことは判っていて、その様に口でも言うのですが、その様にしないのです。イエス様の廻りにはこんな人々がいっぱいいたのです。この女性は出来るかぎりの献身を、行なったのです。300デナリというのですから、今で言えば500万円ほどになるでしょうか。私達は、“この女はできる限りの事をしたのだ”(8節)というイエス様の言葉を大切にしたいものです。

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