2006年
9月17日

≪今朝の聖書から≫
 聖書の箇所は『ガラテヤ書』の最初のところです。この書全体は、まさに福音進行のエッセンスと言えるような内容で、これが書かれたときから今日まで、教会を正しく導くための指針が凝縮されている書簡です。宗教改革者ルターもこの手紙をの第一回講解のあとに、“九十五か条の論題(提題)”を1517年に公にしたことも知られています。このガラテヤというのは、場所の名前ですが、大きくは二つに意見が分かれています。どちらの説を取ったとしても、出来事の記述を『使徒行伝』やその他の書簡と比べながら読むことで、紀元50年をはさむ数年と考えられています。新約聖書の中でも最も最初に書かれた書のひとつと言えます。“たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。”と1:8にあるように、パウロは一回か数回、この地方の教会を訪れていることが判ります。“天からであろうと”というのは、パウロの復活の主に出会った、否定しがたい強烈な出来事に支えられている言葉です。1:4にあるように“キリストから”だとパウロは言っているのです。“かつて私達が伝えた内容がどうしてゆがめられたのか!”と指摘しているのです。私達の信仰も、いかにも魅力的にそして権威を持って教え込まれるときに、時として、本質を失いかねないことを示しています。信仰をゆがめたもの、その内容、ここでは“ほかの福音(1:6)”とあるのは何でしょうか。福音が二つあることはないのですから、すぐ次で解説しているように“福音とは言えないもの”のことです。具体的には、“ユダヤ主義キリスト教”ともいうべき物で、律法の厳守と、割礼の必要性を、教会に教えていました。まずユダヤ人にならなければクリスチャンとしての救いには入れられないというのですから、人々を、特に霊的な面で掻き乱し、キリストを影のようにしてしまうことははっきりしています(1:7)。福音に反する事柄を教会からなくしてゆくのはとても大切です。しかも小さなうちに排除すべきです。大きな罪になる前にです。主に立ち返るのに早過ぎることはないのですから。

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