2006年
9月10日

≪先週の聖書から≫
聖書の箇所は、マルコ福音書12:1~12でした。葡萄園の喩えです。この記録が出てくる聖書の箇所をみましょう。“ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。すると、彼らは互に論じて言った、「天からだと言えば、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。しかし、人からだと言えば」”とあります(11章31節以降)。こんな論争があることからも分かりますが、権威についての論争のなかの喩えとして、豊かに実を結ぶ葡萄園の話が出てきているのです。全て良いものをもって、恵の葡萄園へと導いてくださる権威は、誰のものなのかということです。葡萄は、乾いたパレスチナでは、瑞々しい房をたわわに結ぶ、豊かさのシンボルとして聖書には出てきます。旧新約聖書を通して三百回以上“葡萄”という言葉が出てきますが、全て豊かさのしるしになっています。私たち信仰者も、神様に太い枝で結びついている葡萄に喩えられています。イエス様が、イザヤ書5章に出てくる“神の葡萄園”の引用をもって人々を正そうとされましたが、マルコ12:12に“彼らはいまの譬が、自分たちに当てて語られたことを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。そしてイエスをそこに残して立ち去った。”という記録からも判るように、この人々は旧約聖書にも精通していた、言わば“信仰上の指導者”でした。この指導者達が都合のよいように、神様とその神殿を利用していたとしたら、この喩えのように、与えられていることを忘れ自分のものだと思い込んでしまって、かえって神様を無用なものだと思ってしまった農夫達そのものの姿になるのです。恵が与えられていることを拒否した時の人々の姿は悲惨なものです。その姿がイエス様を最後まで拒んでいる人々の有様として描かれています。教会が立てあげられている時代で言えば、教会を支える事をやめた姿に似ています。私達の豊かな信仰生活のために、すなわち主の喩えの通り、豊かな葡萄園で、その恵に与るために、神様の葡萄園と、主から与えられた全てのものを守らなければならないのです。主の来られる日まで続く、私達それぞれの仕事を召しとして進めるのです。

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