2006年
8月27日

≪今日の聖書から≫
 マルコによる福音書10:46〜52が開かれます。47節から読み進めましょう。“ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した”彼は“私はあわれまれなければならない”ということを知っていたのです。忘れずにいたと言ってもよいかもしれません。その前の節を見ると判りますが、この人は“テマイの子”とあるように、りっぱなユダヤ人、聖書はその家まで紹介しています。助けを求めるのも“ダビデの子”とはっきりしています。内臓の病気もその他の障害も、罪に対する“報い”のように理解されていた社会のなかにいた彼にとっては、“私には病気がある”ということが、経済的困窮などと並んで、信仰において(すなわち神様との関係で)問題のある人という見られ方も、苦しかったと思います。新約聖書には何回か“盲人”という言葉が出てきます。ローマ2:29“知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら”やUペテロ1:9のように、当時の歴史的状況に拘束された表現も出てきますが、福音書の全ては、人の悲惨を表すのに、また“見えるようになった”という出来事を通しての、癒しを示すために記録されています。ところで、現代人も、悲惨のなかに住んでいながら“神様癒してください”とは言えずにいる人が多いのです。実際は癒されなければならない大きな問題・困難に直面していても、他のものに置き換えたり、自分の誇りにすることを、幾つか思い出して、まるで“私は癒される必要がありません”といってみたり、神に“できるのでしたら”などと言って、神様の力を試してやろうと思ったりするものなのです。「先生、見えるようになることです」などと、今御願いすべきことを、求めるべきなのです(51節)。52節に答えがあります。“そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った”というのです。私のうちに神様が信仰を置いてくださっていることを知って過ごしたいものです。

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