2006年
8月20日

≪今日の聖書から≫
 今朝の聖書箇所をはじめ、この書には幼子について何箇所かで記されています(5:22〜、7:24~、7:19~)。今日の箇所はもっと端的に物語っています。“子供こそが祝福されるべきである”というのです。“イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた”とありますが、誰が連れてきたのかははっきりしていません。おそらくその父と母でしょう。そうだとすると、聖書のこの箇所の前に結婚に関して記しているのは全く適切なことと言えるでしょう。夫婦に子がない場合、複数の妻をもつことが許されるという律法理解は問題です。これは、あまりにも家制度中心的の極端な理解ですし、夫婦は子供とは関係のない男女の問題であるとし、家庭などには拘束されないというような、現代人が時々陥ってしまうような解釈も、子供の権利を奪うことになります。イエス様の弟子達も近代人・現代人と同じような間違いを犯したようです。イエスの働きの邪魔になると考えたようです。今まで幼子を受け入れることの大切さを説かれていた弟子達でさえ、そうだったのです。14節の箇所ですが“神の国はこのような者の国である”というのを直訳すると、“神の国はこれらの者達のものだからである”となるのですが、これがイエス様の意思だとすれば、歓迎こそすれ、邪魔者にするのはもってのほかのことだということになります。では何故神の国は子供のものなのでしょうか。純粋だから、素直だから、ストレートだから、大人のように罪に犯されていないから、いろいろと語られますが、少しは当たっていたにしても、本質は幼子の“幼い”ことにあるのです。人権が時として奪われるほど弱いもの、庇護が必要とされる者だということにイエス様の考えはあったのです。私達の教会はこのように考えます、すなわち、教会は子供達を含む共同体であり、子供は教会の子供であり、教会に子供が与えられ、幼児洗礼式の時には“この子が豊かに主の恵に与る者となるように”と祈り、その成長に責任を取ろうと告白するのです。主イエスにより随所で結婚・幼子について語られていることを聞き、神の前に幼く、教えられ、育てられなければならないのが、教会なのです。

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