≪今日の聖書から≫
『申命記』10:12〜11:1が開かれます。12節、17節、20節などに、“恐れる”という言葉があります。“恐れなさい”と言われると、最初は聖書も恐るべき事柄、堅苦しい事柄が書いてあるように思ってしまうかもしれませんが、実はそうではないのです。そのあとにも説明が続きますが13節で結論がまず記されています。“幸いを得なさい”というのがその目的だというのです。またこの方(恐るべき方)を愛しなさいといっています(11:1)。恐るべき神には何か特別の意味があるのではありません。そのままの意味です。私達は恐ろしいものに出会った時どうするでしょうか。隠れたり避けたりすると思います。ところがこの主なる神は、我々が隠れたぐらいでは、また避けたぐらいで、何とかなるような神様ではないのです。それどころか隠れようとするときこそ探し出してくださる神様です。そしてその愛を示し、証拠を持って私達を諭してくださる方だというのです。この神様は、力あり、人を偏り見ず、また賂(まいない)を取らず、みなし子とやもめのような弱いもののために正しい裁きをする方だというのです(17~18節)。すなわち、神を恐れるものはこのようなことを行なうことが出来ず、このようなことを行なう者は、逃げられない正義の神様から、逃げようとして喘ぐのです。私達がその神様という名を指して“正しくありたい”と願い、誓うとき、神様の愛が私達の実感すべきこととして理解できるのです(20~21節)。アブラハムに誓われ、契約を置かれる神、出エジプトの歴史を思い起こさせてくださる神、それらのことを実感させてくださる神、これが証拠なのです(22節)。ですから、せっかく神様に愛される民として選ばれた私達は、神を避けようなどとは思わないで、主を愛し(求め)諭しと定めと戒めを守るようにしなさいと11:1で結論付けられています。このように、私達のあり様が、神を恐ろしい人にも、愛して下さる人にも、しかも無限の力を持って愛してくださる方にもするのです。“寄留の他国人や、不利な立場に苦しむ人を守りなさい、また励ましなさい(19節)”、そのようにしたいものです。
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