2006年
8月6日

≪今日の聖書から≫
 『マルコによる福音書』9:33〜41が開かれます。まず、イエス様は、弟子達が当惑するような問をされます。何ヶ月もイエス様と一緒に過ごしていた弟子達にとって、本当に当惑するのに十分な問だったのです。イエス様は謙遜であることを随所で、“誰が一番偉いのか”について議論するのは、またそのような偉さを求めることがよくないことは、何となく知っていたでしょう。弟子達も、人には“偉さや権威ばかりを求めるのは良いことじゃない”と言ったでしょう。そのことを彼ら自身がしていたのですから、この記事は想像できます。今の教会においても実によく見られることで、“教会が奉仕とささげものによって支えられていることに感謝すること”は正しいと人一倍言うことができても“私には奉仕をしない理由がある”という陰の声が実に沢山の教会から聞こえてくるのです。“人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。(ピリピ2:21〜22)”というパウロのテモテに対する評価も、このような理解に基づいています。“先に立つ”ことは、神の御前に先に立つことを示しています。次に聖書は、幼子を受け入れることについて書き進めています。“イエスの名によって”ということと一緒に考えましょう。“イエスの名によって”とは、幼子はイエス様に属するものであるから、幼子はイエス様の代理者であるから(マタイ2540)、そして幼子を受け入れることをイエス様が望んでおられることだからと、いうことを示しているでしょう。“イエスはすわって十二弟子を呼び(9:35)”とあるのは当時の習慣で、大切なことを今から話すことを示しています。次に、38〜40節には、“他の人がイエスの名によって悪霊を追い出している”という、弟子達の心配や訴えが記録されていますが、根は同じです。著作権のように彼らは考えていたのです。教派主義とも独善的とも言えるでしょう。このことこそイエス様の物事の本質を見抜く力を示す出来事なのです。

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