2006年
7月30日

≪今日の聖書から≫
 『マルコによる福音書』9:14〜29が開かれます。てんかんを癒される出来事は、マタイにもルカにも出て来ます。これほど大切な位置をもっています。今では‘てんかん’もかなりの程度までは医学の対象になっていますが、聖書の時代には、病の背後には悪霊や罪に対する応報的なものを見ることしかできませんでした。この出来事の第一のテーマは、22節にあります。“霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください”という親の訴えです。この言葉が“もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる”というイエス様の応答に結びついています。“もし、あなたにできるものなら”という不確かさや可能性を込めた言葉をイエス様は取り上げられたのです。可能性などという信仰は、“私の側にはない”と仰っているのです。不確かさを問題にするのは問を発した“あなたの側にある”と仰っているのです。信じる者は、積極的にその信仰を導いてくれることをするのです。そのような信仰をもたねばならないのです。この人は素直にこの招きに応えました。“信じます”と言ったのですが、“不信仰な私を助けてください”という言葉は信じているということを直接は示していません。むしろ“信じよう、あるいは信じたいという意思”に従順であったといってよいと思います。今の時代に置き換えても、“助けを求めて叫ぶ”ことをしない、かたくなさが、多くの不幸の原因になっていることが沢山あることをわたしたちは知っているのです。思っていることを表現できない人々の心と、聞くことをしない悪霊、この対立の中でイエス様は、“出て行け”と言われたのですが、“できるものなら”という最初の願いが、確信と癒しに導かれていることが判ります。今日取り上げる二番目のテーマは“祈りによらなければ”という弟子達に対する応えに見出せます。技巧的な方法があるわけではないのです。私達も同様です。何時か、思ってするときも、また思わずするときもお祈りをしているのです。ですから、信じたいという意思が与えられ、助けを叫び求めることもできているのです。

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