2006年
7月23日

≪今日の聖書から≫
 先週の祈祷会では、大石兄によって、詩篇3編が開かれ、ともに御言葉に与りました。祈祷会という素晴らしい時に、静かななかで、御言葉を開き、ともに祈る時が神様によって与えられています。神様の時間だと思います。神様はこのように教会を通して、ふさわしい時間を与えてくださっているのです。最近は求道者の方も出席してくださいます。皆がこの会に、応え、出席しましょう。詩篇3編を中心に聖書が開かれました。3:5に“わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ”というのがその御言葉です。“ひょっとしたら、もう目が覚めないかもしれない”と、仮に思えるようなときには、とても安心して眠れないのではないでしょうか。明日また、疲れもとれて元気に目を覚ますことが、神様に約束されていると思えるとき、“今日できなかったことも反省し、明日はできるかもしれないし、やってみよう”と思えるのです。4:8には“わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです”ともあります。一日の業を終え眠るとき、豊かな心で過ごせることのなんと幸せなことでしょうか。また目覚める時はどうでしょうか。その日一日に、十分な期待をもつなかで朝を迎えたら、なんと嬉しく起き上がることができることでしょうか。しかし怒りや不満の中で夜を迎えたら、また、“今日も一日過ごさなければならないのか”と思いながら朝を迎えたら、幸福とは言えないと思います。病の中で“今日も生きなければならない、つらさと向き合わなければならないのか”と思える時も残念ながら、私達の生活の中にはあるのです。眠りにつく時も、床から起き上がるときも、それどころか眠っているときも、しかも、一時も絶えることなく、守られていることが判っているのが、信仰者の毎日なのです。現実そのものは、平安を与えてくれたり、満足を与えてくれるとは限りません。神様によって私達が守られていることを知るとき、私達が神の作品(エペソ2:10)であることを知るとき、平安と良い行い(“思うこと”も行ないです)がやってくるのです。文:村上

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