2006年
7月9日

≪今日の聖書から≫
 5章に至るまでの簡単な歴史を思い出してみましょう。ヨセフは兄弟達とそんなに仲が良くなかったようです。最終的にはヨセフは兄弟達によってエジプト人に売り渡されることになってしまいます。しかし神様の不思議な導きがあります。ここで不思議な導きと言いますのは、ヨセフ個人に対するものというよりはイスラエルの人々を中心とする世界の歴史を導くことを意味しています。ヨセフの父ヤコブは、てっきりヨセフは死んだと思っていました。その間にヨセフはエジプトのパロ(エジプト王)のもとで、エジプトの大臣として出世することになります。食料の全てを管理する権力が与えられているほどでした。カナンの地方が大飢饉に襲われた頃、イスラエル人は、エジプトに食料を求めることになるのですが、その交渉相手になったのが、かつて見捨てた兄弟ヨセフだったということになります。こんなような時、私達だったらどうするでしょうか。兄弟だって“自分を見捨てた者”のことなど知るものかと言いそうです。ヨセフは何を思っていたでしょう。“私はイスラエルの息子”という思いを育み続けていたことが、聖書の随所に読んでとれます。次に彼は“伴ってくださるアブラハムの神”から離れて、エジプト人になってしまうこともしませんでした。“そこでヨセフはヨセフ、彼らは彼ら、陪食のエジプトびとはエジプトびと、と別々に席に着いた。エジプトびとはヘブルびとと共に食事することができなかった。それはエジプトびとの忌むところであったからである。(43:32)”などという記事を見ても実に複雑な関係だったことが判ります。今日の箇所になって、事態はヨセフの手をも離れ神の物となったのです。人のかけひき、根回しを離れ、ヨセフは全てを忘れ、自分がイスラエル人であることや父ヤコブのことで満たされました。彼の信仰の訓練の実ったときです。行いの全てにおいて聖くされたのです。過去のことはなかったことにはならないのですが、彼を離れ、彼を支配したのは、彼の“神様との関係で”なすべきことにつき進んだのです。この道が彼の最も益となることでもあり、最も辛い時にこそ信仰から離れないでいられるという、訓練の結果だったのです。

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