2006年
6月25日

≪今日の聖書から≫
今日は『使徒行伝』を取り上げます。順に読み進めますが、初めに気付くことがあると思います。“私たち”という言葉ですが、この私というのは、著者であるルカのことを示していて、パウロの伝道旅行の一部に、ルカが同行したことを示しています(16節)。また同じ所に“祈り場に行く”とあるのは、ユダヤの信仰上の慣わしにしたがって彼らと同じ場所で共に祈っていたことを示しています(この場所は集会所にも使われてていました)。教会は、もともとキリスト信仰とユダヤ教は全てにおいて、全く交わる所のないものであったかのように教えますが、実はその反対で、キリスト教は、ユダヤ教世界で、その慣わしの中で、しかし、全く相異なる信仰告白を持って広がって行くことになるのです。更に事情を複雑にしているのがローマの力との戦いでした。このような中でも、弟子達の伝える福音は広く広く、御霊の導きによって成されて行きました。使徒行伝を「聖霊行伝」などという名前で紹介することもあるのはそのためです。女奴隷の心に住みついてその何人かの主人に利益をもたらしていた霊は悪霊ではありましたが、シラスたちの教えるキリストがまことの救い主であることを知り、大声で叫びました。他の福音書などを見ても、悪霊が、まことの神を知っている記録は出てきますが、それは告白ではなく、悪霊のあがきということが出来ます(マルコ、3:11そのた)。悪霊に対するパウロの命令によって、この女奴隷は、占いやまじないなど、主人の益になるような行為をやめます。金儲けの道具にこの女奴隷を利用していた証人達は、パウロとその仲間に怒りを向けることになります。その要点が20節以降にあります。“それから、ふたりを長官たちの前に引き出して訴えた、「この人たちはユダヤ人でありまして、わたしたちの町をかき乱し、わたしたちローマ人が、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しているのです」”とあるとおりです。この後、彼らは捕らえられることになりますが、御霊の導きは彼らから離れることはありませんでした。どんな呪術的な企てよりも、神の霊の方が強いことを、彼らも私達のように知っていたのです。

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