≪今日の聖書から≫
今日はマルコによる福音書(1:29-39)から神の言葉が語られます。“また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。(1:34)”とあるように、聖書には霊、特にこの箇所では悪霊というものが、意思を持って行動する存在として記録されています。私達は、神様、イエス様については、良く知っていると思っています。しかし、霊特に悪霊となると、いろいろと思いを巡らせますが、かなり違った理解をもっていることに気が付くと思います。日本の幽霊のように思えることもあります。ではこの悪霊、私達の救いに関する書物・聖書ではどのように語られているのでしょうか。悪霊の働きに対して無力で、ほおって、ただ耐えるしかないこの世に対する、神の癒しとして書かれています。イエス様の公生涯の前半部分の働きに多くあります。細菌やヴィールスなどといった知識の、今よりは少なかった、この時代には、病気やさまざまな不幸も、悪霊の働きと考えられていたようです。そして現代に至るまで、私達の不安の根源にいるのがこの悪霊かもしれません。呪術的な方法・ジンクスを重んじる心がどこかにあるようです。聖書はまじないを強く否定していますし、“偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。(ガラテヤ5:20)”とあるとおりです。“ペテロのしゅうとめの癒し”にもどりましょう。肉体的、社会的、精神的回復として、救いが記録されています。すぐそばに災いの正体があるのに、気付かないとき、気付こうとしないことがないでしょうか。“その手をとって起されると、熱が引き、女は彼らをもてなした。(1:31)”とありますが、もてなす(給仕)という回復の姿を表しています。もし、抜け出す道も見えないようなみじめで、疎外された環境で悩んでいるとしたら、救いへの一歩がイエスと主と告白する教会と、導き主なる聖霊にあることに気付きたいものです。救いのため一歩を踏み出しましょう。求めましょう。
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