2006年
6月4日

≪今朝の聖書から≫
今日の聖書箇所は「使徒行伝」3:1〜10です。まず2節に注目しましょう。“生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。”とあります。この人は足が不自由でした。そして物乞いという形で生活していました。唯一の手段のように思われていたことでしょう。更に宮もうでに各地からやってくる人々にとっては、貧しい人に施しをすることが“信仰者としての美徳”それ以上に“掟”のように考えられていました。彼は自分では動けませんから、毎日この神殿の中にある門の所まで運んでもらって、物をめぐんでもらう生活を送っていました。結論から言いますとこうです。宮の中にいたのに、神殿すなわち神に背を向けて人々に向かっていたことになります。あなたは将来にどんな夢を持っているのか、などという質問は彼には通用しなかったことでしょう。実現に向かって小さな一歩を踏み出すということ自体、考えることは意味がなかったに違いなかったでしょう。なんだか良く判るような気がします。“「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」”という有名な、ペテロとヨハネの呼びかけが次に記録されています(6節)。二人は彼が欲しかったものを、たとい彼が忘れかかっていたことでも、ほしかったことを知っていたのです。最高の施しは、その日一日を次の一日に、つなげることではなく、おおいなる改心、すなわち、人々の方を向くのではなく、せっかく宮にいるのだから、神様の方を向くことの大切さをキリストの名によって勧めたのです。教会に居ながら、御霊の招きに気がつかないでいる人のための、今も変わらないペンテコステの出来事のひとつなのです。私達は一番大切な物から順に行ないます。その転換が改心なのです。私達が教会と奉仕について、“理由”を考えるとき、もともと不可能なことなのか、理由を見つけて神様に背を向けている言い訳にしているのか問われます。宮に讃美するために彼のように進み行きましょう。

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