2006年
5月28日

≪今朝の聖書から≫
“十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。(Tコリント1:18)”という言葉があります。全ての聖句はこのように、半分だけとか、適度に信じる、といったことを語っていません。今日の箇所もそうですし、ヨハネは随所でこのことを述べています。例えば、8章において“わたしは世の光である(12節)”という言葉が用いられています。16章を通して、互いに愛すべきこと、主の戒めを守ること、キリストに留まること、迫害への備えが必要であること、主が去ること、真理の御霊が主の代わりに来ること、憂いが喜びに変えられること、主の名によって祈ること、などを別れの説教として語られています。続いて今日の箇所(17章)に進むわけですが、主ははっきりと、彼を信じる人々のために祈っていることが判ります。9節に“わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、・・彼ら(弟子達)はあなた(御父)のものなのです。”という言葉があります。弟子達を神に委ね、十字架に赴いたのです。イエス様は、とりなしの祈りにおいて、自身と弟子のために祈り、“父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。”という記憶とも言うべき内容によって、勇気付けられたのです。全世界の贖いというのが主の計画ではなかったのか、ということが思い出されます。しかし、この全世界は弟子達のもの、やがて建設される教会のものだったのです。これからの地を委ねられる者のためにとりなされた、と言うのが御心なのです。“万民を支配する権威を子にお与えになったのですから(2節)”という言葉が、御心を示しています。つまり私達や弟子達の存在自体も、実に神様がイエス様に賜った、賜物なのではないでしょうか。私達がこの地上で生きて行く限り、がっかりするのがつきもの、けれども、“人間の信じる力”などにはよらない、永遠の命への道を示しておられるイエス様が、この時(創造の初めからの計画の成就)のまえに、とりなされたのです。私達がクリスチャンであることを知れば知るほど、私達自身が主の財産なのです。

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