2006年
5月21日

≪今朝の聖書から≫
わたしたちは、お祈りの最後に「イエス・キリストの御名によって祈ります」と、初めの頃は教えられたと思いますが、その様に付け加えて祈ることによって、何故そのお祈りが確かなものになるのかを、イエス様が語っておられるところです(24節)。先週の内容と重なりますが、少し戻って見ましょう。4節に“これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。”とあるのは、弟子達が受ける“迫害”や“躓き(つまづき)”のことです。主ご自身が、迫害や論争に対応してくださったから、難を免れていたのです。しかしこの躓きは、真理の御霊によらなければ解決できないのです。実際わたしたちは苦しい時ほど、信仰を必要としているときほど、不安に思うのです。何を不安に思うかというと、主への信仰を捨てるのではないかということについてです。イエス様は、再び来られることを、子供の生まれることに例えておられます(21節)。真理の御霊を通して、神様といよいよ近い関係(26節)に入れられる私達にとっては、新しい命の誕生を喜ぶ者のように、一時の不安と期待の交錯する状況はなくなり、喜びのみが残るのです。迫害や信仰の放棄を迫る状況は、更に物事をはっきりさせます。20節に“あなた方は悲しむが、この世は喜ぶ”と十字架の出来事を語っておいでになるとおりです。イエス様が導いてくださったように、今や導き主は聖霊なのです。13節に“真理の御霊が来る時”とあるのはまさしく、教会の時なのです。今朝の御言葉には、反対の意味の言葉が連続させられているものとして示されています。それは“憂い”や“悲しみ”という言葉と“喜び”です。その結び付けているのが“しばらく”という言葉です。本当に喜びへと、しばらくの後、変わるのは、私達がすでに世に勝っているイエス様に基礎を置いて祈るからです。そしてこの喜びは、御言葉が例えている出産の出来事のように、決して元の苦痛には戻らないのです(21節)。弟子達が経験したことをもう一度経験してみましょう。憂いを喜びに変える方法が、信仰者の経験として、聖書には書かれているのです。

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