2006年
5月14日

≪今朝の聖書から≫
“わたしはまことのぶどうの木”(15:1)という聖書の箇所は、しばらく教会生活をおくったクリスチャンなら誰でもどこかで聞いたことのあるところです。安心して読むことの出来る箇所でもあり、イエス様のこの上もない優しさと、信頼を感じさせる箇所です。教会ではイエス様をぶどうの木に譬アクセサリーなどにもよくぶどうを使っているようです。今日の聖書箇所には、はっきりとこれらの戒めがあなた方に何故有益かという結論が記されています。“わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである(15:11)”が目的に当たる箇所です。私達に喜びが満ち溢れるための、というのが目的なのです。そのためにしっかりと、よく実をつけるぶどうの枝が手入れされ、幹から栄養を得てますます豊かに実を結ぶようになるように、キリストの枝であり続けなさい、というのです。実を結びたいという思いは、割合に簡単にもつことができるでしょう。そのために努力することもします。しかしそこに留まっているというのは、ちょうど枝が自分で実を結ぼうとして、努力しているようなものだというのです。このような枝の、元気がなくなった時の姿は無残なものです。力もあまるほどあり、健康にも恵まれているクリスチャンが、一番大変なとき、病気や試練を経験した時に、枝であり、実を結ぼうとするのか、枝である事をやめるかが問われるのです。2節において、どんなに見栄えがよくても、実を結ばなければ、意味がないと教えています。皆が枝です。しかし問われるのは、実を結ぶかどうかです。更に不安に思う必要もない、と御言葉は教えています。3節で“私の言葉によって、既に清められている”と言っています。ですから幹に結ばれた時に、豊かに実を結ぶことが出来るのです。“取り除く”という言葉が2ケ所で用いられています。最初は神様によって除かれる事(2節)で、次は、主の枝になっていない人々は、人の力によって取り除かれてしまう事(6節)です。人間の持っている力では、主に結ばれた人を引き離すことは出来ないのです。

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