2006年
5月7日

≪今朝の聖書から≫
ヨハネ福音書13:31〜35が開かれます。この箇所の中心は勿論神様の愛ですが、少し前から読まないとよく分かりません。“ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。(13:30)”とありますが、“今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。(13:31)”の意味は、主がユダの裏切を黙って見送られたその瞬間に、ご自身の運命が、十字架との関係において、決定的なものとなったことを示しているからです。この時、人の行為によって、愛が暗闇の中に投げ捨てられたのです。しかしイエス様は“彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。(13:32)”という言葉によって、愛が再び人の心を支配する最も大いなる力になることを宣言され、神の栄光を宣言されるのです。ここにある“彼”というのはイエス様のことです。そして、神様の愛は、愛する者を死から復活させられるという形で、人々に見えるものとなったのです。ご自身の栄光を、父なる神の栄光に与かると言っておられます。更にイエス様は、愛というものが自動的に人の心の中に現れては来ない、ということも言っておられます。むしろ自動的に、あたかも遺伝したかのようにやってくるのは罪でしょう。主を受け入れることによってやってくる人の愛は“戒め”という形でしるされています。“わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。(13:34)”がその戒め、また契約なのです。互いに愛し合うのは、イエス様の内にいる条件なのですと、子供のように未熟な弟子達に仰っているのでしょう。天の領域にまで教会員は随行することは出来ませんが、真実にイエス様を見出しているといえるのでしょう。レビ記19:18に“自身のように隣人を愛せよ”という戒めがあり、イエス様もそのとおりだと仰っているのですが、主の愛こそ、この関係を現実に力をもったものとして、私達が目指すことの出来るものにしてくださったのです。イエス様の贖いの業がここにあるのです。

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