2006年
4月30日

≪エステルの会から≫
創世記を読み進めてきましたが、先週は45章でした。兄弟達すなわちイスラエルの息子達に、エジプト人に売り渡され、エジプトで不思議な体験をした後、パロの元で大臣にまで上り詰めたヨセフは、この地で二人の子供をもうけることになりましたが、本来自分はカナンの地に父を持つイスラエル人であることを忘れませんでした。食料を求めてやってきた兄弟達にこのことは言いませんでした。けれども、パロの仲間であることも拒否しているのです。食事をするときもそうでした“そこでヨセフはヨセフ、彼らは彼ら、陪食のエジプトびとはエジプトびと、と別々に席に着いた。エジプトびとはヘブルびとと共に食事することができなかった。それはエジプトびとの忌むところであったからである(43:32)”とあります。そして45章で、自分を売った兄弟を許す歴史に進みます。彼はいろいろと、兄弟達との関係がなくならないように作を労していることは、55章に記録されていますが、貫いている思いは、神の摂理・導きの元に兄弟達を許し、全てを益に導くということでした。エジプト人は、大臣ヨセフの兄弟達が訪れてきたことは判ったのですが、その中に、弟をエジプトの商人に売り渡したことがあったことは最後まで判らないでいます。運命の原因になった、この兄弟達の悪事を許し、許したことをも他の人々に黙っておくことが、彼の利益になることを知っていたのです。私達がよく“徳をたてる”という言葉を口にしますが、このことかもしれません。“ヨセフは声をあげて泣いた。エジプトびとはこれを聞き、パロの家もこれを聞いた。ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはヨセフです。父はまだ生きながらえていますか」。兄弟たちは答えることができなかった。彼らは驚き恐れたからである(45:2〜3)”とあります。ヨセフは兄弟達を許すのです。兄弟達のためというよりは、自らの喜びのために、そのようにしました。このことは父にも伝わり“希望こそ喜び”であることを私達に教えます。“そしてイスラエルは言った、「満足だ。わが子ヨセフがまだ生きている。わたしは死ぬ前に行って彼を見よう」(45:28)”とあります。神の使命をヨセフは知っていました。

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