2006年
4月23日

≪今朝の聖書から≫
中心テーマは、やはり22-23節でしょう。“彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」”とあります。聖霊を受けるということはとても大切であることが判ります。このことはとりもなおさず、“私達がインマヌエルの神”の前に礼拝を守っているかどうかの、分かれ道になるのでしょう。さて聖書を順番に見ましょう。師と仰ぐイエス様を失った弟子達は、不安を覚えます。この不安に対してイエス様は“平安”をまず示されます。考えてみても私達は、不安に生きているといえるでしょう。これは死ぬまで続きます。おまけにこの不安材料というのは、大きな事柄というよりは身近なことに、家族や職場や学校に由来することの実に多いものなのです。彼らにとってもイエス様の死は、実に身近だったのです。平安を示された後に、派遣を示されます。どの福音書にも“あなた方を派遣する”と、復活のイエス様の証人・伝道者になるようにという命令が記されています。この出来事にトマスの出来事が記録されています。みんなが「死んだはずのイエス様に会ったよ」と言っても、その不合理な出来事のゆえに彼は信じませんでした。当然でしょう。それどころか全てを疑って真実を突きとめようとするのは、時に実に大切な生き方なのです。事実を確かめる立場をもった優秀な人だったといえるでしょう。だからこそ主に会い、聖書の教えや理解を受け入れたのです。そして彼は完全に“聖霊を受けよ”という言葉を信じ、その派遣命令を受け入れることの出来る優秀な弟子となったのです。栄光の姿に変えられた主に出会ったからです。復活の主に会う前までの知識と経験を用いて真実を知ろうとする方法は、きわめて不十分だということが判ったのです。22節ですが、私達が、見て見ぬふりをしてそのままにしておく罪も悪事も不安も、共に、今この時間も共にいてくださる聖霊の働きによって、平安に変えられるのです。トマスの歴史を知る私達も、人の理解を超える神様の導きを事実として信じるときに、信仰が見えると言われるのです。よみがえりの主は、教会の事実なのです。

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