2006年
4月16日

≪今朝の聖書から≫
イエス様の復活の出来事はキリスト教信仰の中心のひとつでしょう。受難の予告をされた主も必ず、復活との関係でこの受難ことを述べておられます。勝利との関係で、受難のことについて語っておられると言ってもいいでしょう(8:31、9:31、10:34など)。また教会は“全ての人は復活する”という、パウロを始め全ての弟子達の理解を教えています。私達もやがて復活するのです。ただ砂漠のような、荒れ果てた世界に永遠に生きることになるのか、主のもとで神を讃美する世界に永遠に生きることになるのかの違いです。復活は希望なのです。しかしこの復活するという信仰を持っているのは、私達この世で、困難に直面しながら毎日を生きている人々なのです。ですから困難な時ほど、あるいは病気に侵され弱っているときほど、信仰を持ち続けることの意味を知らなければならないのです。さて、1〜8節で空っぽの墓を通して、そして9節以降で、顕現というかたちでキリストの復活を描いています(日本語の聖書では括弧の中に書かれている部分で、教会の歴史で記述がもれている場合もかなりあることを意味しています)。女性達が墓の中にはいると、出来事の次第を人々に伝えるために、若者がそこに座っているのを見て驚きます。これはヤイロの復活(蘇生)の出来事とは根本的に異なり、神が直接手をくだして行なわれたことを告げ知らせるために御使としていたのでしょう(誕生の歴史を解説するのも天使の役割でした)。復活のイエス様は、弟子達もなかなかその人と一目では分からないほどのものだったのです。この天的な出来事を“驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である”という宣言がなされるのです。この“よみがえって”ですが正確な訳は“よみがえらされて”と訳すべき受身になっているのです。いずれにしろ、十字架の死と栄光の復活は勝利と救いを指し示している出来事なのです。何に対する勝利なのでしょうか。罪と滅びに対する勝利なのです。相手の敗北を必要としているような勝利ではなく克服なのです。
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