2006年
4月9日

≪今朝の聖書から≫
今朝の聖書の箇所には、何となく隠された意味があるように思われます。ロバの子をめぐる筋書きです。イエス様は十字架を目前にしてエルサレムにお入りになります。“エルサレム入城”などと呼ばれています。ここにロバが登場してくるのです。旧約聖書のゼカリヤ書9:9を見ましょう。“シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る”とあります。“王はあなたの所に来る”と預言されていますが、同時にその王は“柔和であって、ろばに乗る”というのです。強くなければならない王と、弱さと従順のシンボルのようなロバが同居しているので私達も不思議に思うのかもしれません。復活の勝利において、栄光のうちに、全ての罪の贖罪の業を成就されたことを知っている、イエス様に対する私達の思いとも、なんとなく違う描き方がされている事にも気付くでしょう。“今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ”と人々がイエス様をダビデにたとえて迎えた様子も、なんとなくしっくりときません。イエス様を信じるかなりの人々の群はすでに形成されていたようですが、これらの人々もこのことが分かっていませんでした。ダビデ王朝のような、すばらしい政治権力と武力によって、ローマの支配からイスラエル民族を解放してくれる、ユダヤ人の権力的である王の姿が想像され期待されていました。だからこのように讃美したのです。ホサナというのは、“どうか救ってください”という意味ですが、人々の歓迎の姿は、王に対する期待の姿のようには描かれていますが、十字架上のイエス様が想像されているようには見えません。だからこそ、主が、本当に十字架刑で殺され、葬られたとき、弟子を中心とする人々の心もひどく弱いものになってしまったのです。詩篇の20:7に“ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る”とあります。教会では、絶対に戦車や馬を誇ってはいけません。十字架の贖罪を知っている私達は、救われたことをのみ指し示すのです。