2006年
3月26日

≪今朝の聖書から≫
 今朝開かれる聖書の箇所は、『ヨハネ第一の手紙』3章1〜9節です。手紙と言われていますが書き出しも末尾もそれらしいところがありません、パウロの手紙のように宛名や挨拶の言葉もありません。でも、この手紙には個人的な性格が読み取れます。ある註解者は、この手紙は『牧会的配慮に満ちた説教』といっても良いほど、教会員に対する深い愛と配慮に基づいて書かれた一牧者の説教のようであると言っています。今朝は皆様と一緒に神様からのメッセージを聞きましょう。それではヨハネはどのような状況の時に、いつ、どこでこの手紙を書いたのでしょう。それは紀元100年後まもなく書かれ、場所はエペソのようです。この頃には二代あるいは三代目のキリスト教徒が多くなっていたことでしょう。初代教会のように血を沸かせるような興奮や何か新しいものを見出すというような感動は少なくなっていたかもしれません。ちょうど私達のように、「あの頃は良かった」といって最初の興奮が過ぎ去り、献身の思いも消えかけていた時代かもしれません。(総会の時、林先生と草薙教会の当時のことを懐かしくお話する機会が在りました。)エペソの教会といえば『しかし、あなたに対して責むべきことがある。あはたは初めの愛から離れてしまった』(黙示録2:4)と復活のキリストから言われています。今の私達に、この御声はどのように聞こえるでしょうか。でも、でも、神様は責めているのではありません。この手紙の書かれた目的は、

◎    私達の喜びが満ちあふれるためである。(1:4)

◎    あなたがたが罪を犯さないようになるためである。(2:1)

というメッセージが込められているのです。聖書を見ましょう。3:1に『あなた方はすでに神の子なのである』とあります。初めて教会へ行った頃、あなたがたは「神様の子だから天のお父様と言ってお祈りしましょう」といわれて驚きました。私が神様にお願いしたのでもなく、神様に特別良い事をしたのでもありません。なのに、神の子と呼ばれるというのです。それから少しずつ聖書の話を聞く度に、神様がイエス様を与えたもうほどに、私達を愛して下さったことがよくわかりました。そして、先週の村上先生のメッセージの中にあったように「それでは、あなたがたは私を誰というか」マルコ8:28という問に「あなたは私の救い主キリストです」と告白し、受洗して救われました。だから2節にあるように、今や正真正銘の神の子なのです。皆さんは尊敬する人に出会ったとき、その人の様になりたいと思ったことはありませんか。私は、学生時代や社会に出てからも多くの人達に出会い影響を受けてきたように思います。その中でもイエス様は特別です。私達の信仰生活は旅人のようだとよく言われます。それでは、私達は何処へ行くのでしょうか?どうなるのでしょうか?しかし、ヨハネはまだ明らかではないといって憶測したり、不十分な言葉で表現しようとはしていません。でも、いつの日か私達が皆、キリストとその栄光を見る日が必ずやって来る、今は鏡を見るようにおぼろげであるが、その時には顔と顔を合わせて相見るのです。と言われています。そして、キリストが現れる時、彼を見、彼に似る者となるというのです。これが私達の魂の目標であり希望ではないでしょうか。イエス様は従順で柔和で愛にあふれた方です。この方に似る者となれるとは大きな喜びであると思います。今朝、この喜びについて共に考えましょう。(文:大石兄)