2006年
3月19日

≪今朝の聖書から≫
イエス様のことは、その教えに於いても、業に於いても全てに於いて、かなり知られていたことがここだけ読んでも判ります。「人々は、わたしをだれと言っているか」と27節にあることからも判ります。続いて私達が注目すべき言葉が弟子達によって語られます。“彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。”というのが、弟子達による客観的説明でした(28節)。こういうことです、弟子達も“情報”は沢山、手にしていたのです。“情報化の時代”、“情報が売り買いされる時代”という言葉が使われるようになって、もうかなりたちますが、聖書の頃から、“もたらされた情報”というものには敏感だったようです。私達も、時にはうわさとか作り話だと半分は知っていることまで含めて、実に多くの情報に囲まれ、その中で右往左往するものです。その状況の元で“価値観の多様な時代”という言葉も作られたのでしょう。このような時代だからこそ我々クリスチャンに求められていることがあります。多くの信仰、あるいは宗教といえるようなものの中で私達は、キリスト教と教会について、説明しなければならないのです。先ほどからの話で言いますと“情報源”とならなければならないのです。信仰についての説明を一生懸命にすれば、大筋でまちがいはないと思います。問題は聞いた人にとってどうかということです。新しい情報がひとつ加えられた、ということで終っているときが多いのです。“クリスチャンは聖書を信じている”という説明ではなくて、“私は聖書を信じる”と言うべきなのです。キリストについて語ることと、キリストを語ることの違いと言ってもいいかもしれません。“そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」”と、29節にあることからも、このことは明らかです。受難も復活も、“私の罪の贖い”と無関係に語られたのでは、キリストを語ったことにはならないのです。“ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」”と33節にあるのはどういうことでしょうか。彼の中にある悪い思い、正しい答えをしても、これが私の答えです、と言うことに、おびえがあったのでしょう。