2006年
3月12日

≪今朝の聖書から≫
 開かれる聖書のちょっと前をみましょう。“さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(3:13-15)”とあります。“山に登り”は、神ご自身の御心がなることをイエス様は第一にされていたことを意味しています。任職を受けたものたちは来ました、召命に応えたのです。そしてその目的の第一は、身近に置かれることでした。召命とは身元におかれることです。そして、実はクリスチャンの全てがそうなのです。彼らを遣わし、権威を授けられました。この権威こそ今も教会を通して生きている権威であることを忘れないようにしましょう。20節以降ですが、イエス様が家族を含む身内の人々にも誤解された出来事をマルコは、率直に記録しています。23節からは“論争の出来事”になります。ベルゼブル(アラム語の表現で「バアルの主」)という言葉が出てきます(22節)。多くの人の前で悪霊と戦い、人々が集ってきたことは20節により判ります。このことはユダヤ教とその指導者達には受け入れられないことで、“エルサレムから下ってきた”という言葉から判るように、もはや無視できないものになっていたのです。“彼(イエス様)は悪霊と戦うもの”だとして、悪霊の頭に取り付かれているとしたら、悪霊同士の戦いということになります(23節)。国、家、一人の人についてこのことを譬えで話されました。律法学者達を“強い人=神でないものに取り付かれた人”と言っています。律法の権威は悪の霊に支配された人々こそが知っている権威です。その縄目にある人々を救うために、イエス様は、“悪霊よりも強い力の持ち主である”ことを宣言されています。このような権威の宣言に続いて、恵の宣言がなされます。“神を汚すことを知っていたとしても”罪から解放する力が福音にはあると言っているのです(28節)と続きます。今日の聖書箇所を逆説的に読むことも出来ます。神をたいした方だと思っていない人達には、神に愚痴をいうことも出来ませんし、無意味でしょう。神の前に嘆き、嘆くことを知っている人々は、“あなたの嘆きは聞かれた”という神の言葉のあることも知っているのです。